| 天文十年、石見の国人小笠原氏は尼子氏に属して尼子晴久の大森銀山奪回に加わり、毛利から銀山の奪回に成功した。 毛利氏が銀山を奪回するためには、この小笠原当主長雄を降さなくてはならない。そこで、永禄二年(1559)、元就は小早川隆景の軍とともに郡山城を発して石見に入り、出羽で吉川元春の軍と合すると、その勢12000をもって温湯城を急襲した。長雄は尼子の救援を加えて果敢に追撃したが、毛利軍の重囲によって城内の糧食尽き、ついに降伏を申し出た。 元春・隆景は長雄に首を討ち、小笠原の命脈を絶つと主張したが、元就は長雄を助命し、甘南備寺に隠居させた。降伏してきた敵将の命を絶つのは容易い。しかし、それでは周辺の諸将の信望は得られない。戦の始末は、常に五年先、十年先のことを考えて処置する必要があるということを教えるつもりもあった。 翌年、元就は助命した長雄を先鋒に立て、隆元以下、元春、隆景の兵に芸備石の兵を加えた14000余で、山吹城を攻めた。 本城常光は天険に拠って巧みに抗戦し、毛利軍は苦戦に陥った。おりしも、筑前では尼子と呼応した豊後の大友宗麟の動きが活発で、大軍をいつまでも石見に張りつけておくわけにはいかなくなった。元就は止む無く兵を引いた。 力攻めによる奪還をあきらめた元就は、得意の調略に転じた。常光の弟、周防山口法泉寺の僧で松かわというものに渡りをつけ、味方に加わるのならば、銀山領の他に多分の領地を与える、と伝えさせたが常光はにわかに誘いに乗ろうとはしなかった。 が、この年の師走、尼子家では晴久が死に、子の義久が跡を継いだ。元就はこれを好機として尼子との和議を進めた。孤立した常光は義久の力量を見限り息子を人質に降伏を申し出て、山吹城を明渡した。四年ぶりに銀山は毛利氏の手に帰した。が、元就は長雄のときとは反対に、降伏した常光を処刑した。 それは周辺の諸豪を畏怖させるには絶大な効果があった。石見の諸豪は雪崩をうって毛利に降り、最後まで敵対を続けた湯惟宗も尼子氏を頼って出雲に逃れたので、元就は銀山だけでなく、石見全体を掌握することとなった。 |
| 毛利 | 尼子 | |||
| 総兵力 | 14000 | |||
| 総大将 | 毛利元就 | VS | 本城常光 | |
| 主な武将 | 毛利隆元 吉川元春 小早川隆景 |
小笠原長雄 |
| 戻る | |