有田中井手合戦

永正十四(1517)年
 安芸国の守護武田氏は、応安元年(1368)に氏信のとき守護職を奪われて、大内弘世・今川了俊がこれに代わり、以後は細川・渋川の時代を経て山名氏が代々安芸守護に任じた。しかし、幕府は鎌倉時代以来太田川下流域に支配基盤をもつ佐東銀山城主武田氏を無視する事が出来ず、これを、安南・佐東・山県三郡の分郡守護とした。永正十四年(1517)10月、当時山県郡大朝の新荘地頭吉川氏に帰属していた小田信忠を、有田城に攻めたのは、この分郡守護武田元繁であった。
 佐東銀山城を出た武田元繁は、麾下の己斐・香川・熊谷等の諸将以下、5000余騎を率いて山県郡の今田城に陣取り、東進して有田城を包囲した。さらに先鋒は10月21日に毛利領の多治比を侵略した。そこで、多治比猿掛城主少輔次郎元就は、武田軍の先鋒熊谷元直の軍勢を150騎の手勢をもって破り、翌22日の仏暁を期して有田中井手に布陣した熊谷陣地へ奇襲攻撃をかけた。元直は中井手に柵木を結い回した防塁を盾に応戦したが、元就は加勢に駆けつけた本家の毛利軍と吉川軍あわせて1700騎を率いてこれを撃破し、熊谷元直を討ち取った。
 熊谷軍を破った毛利軍は又打川畔をさかのぼり、有田城麓に布陣した武田軍と対峙した。このとき毛利軍は兵700を左右に分け、元就が率いる本陣がその背後を固め、100騎を後陣に置いて、さらに200の軍勢を武田軍の背後に迂回させた。これは有田の城兵と合流して城麓の武田軍の背後を衝く布陣である。
 これに対して武田元繁は有田城の包囲陣を伴繁清・品川信定の両将に任せて、自らは4800騎の陣頭に立った。五段構えの布陣で、左右両翼に兵を進めて毛利軍を包囲する鶴翼の戦法である。この陣形では、小勢の毛利軍が武田軍によって包囲殲滅される事は誰の目にも疑いなかった。
 だが、血気にはやる元繁は、退却する毛利軍に追い討ちをかけるため、軍馬に鞭打ち、又打川を飛び越えようとしたところを、毛利勢の放った征矢で討ち取られるのである。

武田 毛利 吉川
総兵力 5300 1700
総大将 武田元繁 VS 毛利元就 小田信忠
主な武将 熊谷元直
己斐師道
香川行景
福原広俊
桂元澄
北就勝
赤は勝者、橙は勝者方援軍、青は敗者、緑は敗者方援軍を表します。
赤武将は、その合戦での戦死者です。尚、左が攻め側、右が守り側です。
    戻る