第一次郡山篭城戦

天文9(1540)年
 郡山城に向かって押し寄せる尼子軍3万。これを迎え撃つ毛利軍2400。「敵多勢と言えども恐るるに足らず」元就三大決戦の序戦の火蓋は切って落された。
 尼子氏は、多年芸備両国の間に植え付けられていたが、元就の活躍によって侵蝕されてきた。そこで尼子詮久(後の晴久)は、元就が力をつける前に郡山城に迫り、その勢力を粉砕しようと計画したのである。祖父経久、その弟久幸らは反対したが、翌年詮久はその反対を斥け、安芸遠征を決した。安芸へは備後路と石見路の二つがあり、そのどちらを選ぶかが重大であった。結局、尼子氏に属していた三吉隆信と連絡して、新宮党の国久、誠久、久幸の三将に率いられた3000余が、備後路から隆信方の八幡城に陣を進めた。ここから、可愛川を渡り祝屋城、五龍城を陥れたのち郡山城に迫る計画である。
 しかし、この第一次来侵は五龍城主宍戸元源、孫の隆家、深瀬隆兼らの犬飼平の瞼、石見堂の渡しなどでの決死の防戦で渡河は防がれた。一歩も渡る事の出来なかった国久らは、この方面から吉田に進出するのは難しいと察し、出雲に帰還した。郡山合戦の緒戦であった。

尼子 毛利 宍戸
総兵力 3000 2400
総大将 尼子詮久 VS 毛利元就 宍戸元源
主な武将 尼子国久
尼子久幸
尼子誠久
福原広俊
桂元澄
赤川元相
宍戸隆家
深瀬隆兼
赤は勝者、橙は勝者方援軍、青は敗者、緑は敗者方援軍を表します。
赤武将は、その合戦での戦死者です。尚、左が攻め側、右が守り側です。
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