天文富田合戦

天文十一(1542)年
 大内義隆が文治派の相良武任・冷泉隆豊らの反対を押し切って15000の軍勢を率い、山口から出雲遠征に向かったのは天文11年(1542)1月11日であった。先年、一万騎を率いて吉田郡山城の後詰めに出征し、勝利を得た陶隆房が、これを進言したからである。
 1月19日に安芸厳島へ渡って厳島神社に戦勝を祈願し、安芸の国府で安芸・備後の国人衆を合流させ、北上して山県軍から石見国へ入り、邑智郡出羽の二ツ山城で、今度は石見の国人衆を糾合させた。江川の都賀渡りで船橋を架けて渡海し、出雲路へ入ったが、ここで尼子軍の第一線基地である赤穴の瀬戸山城を攻め、2ヶ月近い日数を費やした。
 赤穴を出た大内軍は7月27日に本陣を由木へ移し、三刀屋から宍道湖畔へ出て、本陣を馬潟の正久寺へ置いた。ここで越年し、宍道の畦地山で軍議を開き、2月12日に本営を京羅木山へ移した。ここからは冨田城が俯瞰できる。しかし、めざす富田城攻略は、はかばかしくなく、4月晦日になって備・芸・雲・石の新参国人衆13将が一同に申し合わせて尼子軍に寝返ったため、大内軍は5月7日を期して全軍総退却を始めた。
 5月7日未の刻、義隆は養嗣子義房(晴持)とともに京羅木山を下って八束郡揖屋へ出た。ここで海路をとる義房と別れ、5月9日に宍道に至り、尼子軍に追撃されながらも、石見路を通って山口に帰還する事が出来た。
 ところが、揖屋をとろうとした義房は艀から木船へ乗り移ろうとして溺死した。また殿軍をつとめた毛利元就は、星上山から岩坂道を抜け、能野路を通過して簸川郡の古志・後浜へ出たところで、敵の伏兵に襲撃されて大勢の部下を失った。さらに石見路を南下して安芸へ向かう途中の邇摩郡降路坂で尼子方銀山城兵に大江坂へ追い詰められ、絶体絶命のピンチに立たされた。だが、この危機は元就家督相続に反対して誅殺された渡辺勝の子、通の身代わりで逃れる事が出来た。このあと元就は大江高山の矢滝道を組式から邑智郡の三原村へ出て、安芸吉田へ帰還した。

大内 毛利 国人衆 尼子 国人衆
総兵力 15000
総大将 大内義隆 毛利元就 VS 尼子晴久 吉川興経
主な武将 大内義房
陶隆房
益田藤兼
福屋隆兼
毛利隆元
宍戸隆家
渡辺通
児玉元保
小早川正平
天野興定
熊谷信直
熊谷直続
尼子義久
山内隆通
三沢為清
三刀屋久扶
本城常光
赤は勝者、橙は勝者方援軍、青は敗者、緑は敗者方援軍を表します。
赤武将は、その合戦での戦死者です。尚、左が攻め側、右が守り側です。
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