毛利家を支えた女性達
「皆、良い子に育って・・・毛利を・・・。」
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祥の方は毛利弘元の正室で、福原城主福原式部大輔広俊の末娘である。祥という名は大河ドラマの製作。法名の「祥室妙吉禅定尼」より取ったのであろうか。弘元に嫁いだ年月日は定かではないが、弘元との間に興元、宮姫(武田某室)・元就という二男一女をもうけた。祥の兄は福原貞俊である。貞俊は元就宗家相続を要請した宿老十五人の筆頭であり、毛利家興隆の大功労者であった。文亀元年(1501)十二月八日、年三十四で卒。元就、五歳の時であった。 |
「元就様、これからは、杉を母と思って下さりませ・・・」
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毛利弘元の側室(継室とも)。高橋久光の娘として輿入れをする。元就は五歳で母を、十歳で父を失った。十一歳の永正五年(1508)には兄興元が京に上り、室町幕府に出仕する。ところが弘元から元就の補佐を遺託されていた井上元盛は、その地位を利用して多治比三百貫の所領を横暴、元就を猿掛城から追い出してしまう。
元就の身を案じ、再婚を諦めてまでその養育に勤めたのが、杉の方である。実名は「椙若社」の伝承と書き方から「杉」ではなかったと言える。城を追われた元就は、興元留守の三ヶ年を、杉一人を頼りに生きたのである。
元就は十一歳の時に、杉に連れられて旅僧のもとに念仏の大事を授けられに行く。これが元就の信仰生活の始まりであった。元就にとっては心の母であったと言えよう。天正十四年(1545)六月六日に亡くなる。
元就が終生、感謝の念を抱き続けた杉に関しては、残念ながら詳しい事が伝わっていないが、郡山城址の麓には清神社が鎮座しており、この本殿に並んで、かつて椙若社と呼ばれた社があって、その祭神には「毛利元就公母儀杉大方之霊」(杉の方)が安置されていた。 |
「兄弟仲良く、手を取り合うのじゃ・・・・」
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毛利弘元の側室。毛利家文書中「毛利弘元子女系譜書」には「御袋様」とあり、系図では「家女房」とある。難波勘兵衛の娘、または佐々木某の娘とも伝えられる。弘元との間に元綱、松姫ら一男四女をもうけた。 |
「殿、もはや勝ったようなものに御座います。」
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美伊の方は吉川国経の娘で、元経の妹にあたる。美伊という名は、大河ドラマでの創作であり、本名は伝わっていない。後年、元就が息子達に送った手紙等では、法名の「妙玖」で呼んでいる。永正十四年(1517)の有田中井手合戦で元就が勝利を収めた前後に嫁いだと言われる。
元就との間は仲睦まじく、隆元、五龍、元春、隆景の三男一女をもうけた。息子達は皆、戦国きっての名将に育ち、毛利家を支えた影には、美伊の並々ならぬ努力があった。元就からは家庭いっさいを任されていた。
だが、天文十四年(1545)十一月三十日、四十七歳の若さで他界した。その年の夏には杉の方も没しており、元就は大変な落胆で、翌年には隠居し、隆元に家督を譲ったほどである。
その後、元就は有名な十四ヶ条の教訓状を始め、三人の息子達に宛てた手紙の中で度々美伊の事に触れている。隆元宛ての手紙には「この頃は何故か妙玖のことばかりしきりに思い出されてならぬ」とか、「ただ心密かに亡き妻の事ばかりを思うておる」という意味の述懐がある。亡き後、城内には菩提寺妙玖庵が建てられたという。 |
「しおしおなされますな。 妙がついておりまするぞ。」
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毛利元就の側室(継室とも)。毛利氏家臣の内の雄族である児玉氏の嫡家小幡氏の娘というが、父の名は不詳、兄は小幡元重。中之丸または東の大方と称せられる。妙の名は大河ドラマのものであり、これも「悟窓妙省大信女」から取ったものであると思われる。元就との間に子はなかった。
出雲在陣の際元就は、小幡家が絶えるのを惜しみ、彼女の近縁の末家児玉就忠・就方兄弟に小幡氏の家紋「根引の唐扇」を用いる事を許した。妙は寿の方(尾崎局)と協力して嫡男輝元の幼時の薫育に従事した。また、子のなかった妙は穂田元清(元就の四男)の幼時、特に慈愛を傾けたので、元清も報恩の念切なるものがあった。その為、輝元や元清らの手厚い庇護によって、安楽に余生を送ったと伝えられる。寛永二年(1625)九月二十五日卒。 |
「あの世の地獄より、この世の地獄の方が宜しいではありませんか。」
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石見国出羽城主高橋大九朗の娘という。雪は、大河ドラマ創作の名。年月日は定かではないが興元の正室となり、一男(幸松丸)・一女(杉原盛重室)をもうけた。卒年・法名・墓所ともに残念ながら、伝わっていない。
雪の生家高橋氏は、古くから出羽氏の本領であった出羽郷を押領していた。大永三年(1523)三月、大九朗は三吉修理亮と高田郡青屋の城を争ったが、戦勝に浮かれて油断していたところ不意を衝かれ、討死する。
元就の兄興元が急死し、その子幸松丸が二歳で宗家を継ぐと、幸松丸の外戚高橋氏の勢力が毛利氏に圧し掛かってきた。元就の二女の内一人は二歳で高橋氏へ養女として貰われたが、実際は人質に取られたのである。高橋氏は毛利領の北隣から石見国にかけて勢力を拡大しており、元就は高橋氏の専横を耐え忍んでいたが、毛利宗家を継いで五年後に高橋氏を徹底的に粛清して一族を誅滅している。 |
「いつまでも、隆元様のお側に・・・・」
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寿という名は大河ドラマでのもの。法名の「妙寿寺殿仁英寿興大姉」から取ったものであろう。大内義隆養女として天文十八年(1549)、元就の長男隆元と婚約、室となった。実は大内家の重臣内藤下野守藤原興盛の三女である。尾崎局とも、小侍従の局ともいう。嫁いできたときには夫隆元はすでに当主であった。
隆元との間に長男幸鶴丸(のちの輝元)、長女(吉見広頼室)、次男徳鶴(早世)をもうける。
しかし結婚生活十四年で隆元が急逝、三十五歳で未亡人となった。義父元就の見守る中、十一歳で当主となった輝元の教訓教育にひたすらはげんだ。元亀三年(1572)九月晦日、芸州で卒。郡山城内には菩提寺妙寿寺が建てられたという。 |
「世の不器量な方の希望になれれば・・・」
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美々というのは大河ドラマ創作のもの。その出自は分かりませんでした。高松城主熊谷信直の娘として、元就の次男元春の正室として嫁ぐ。熊谷信直は国衆の実力者であるが、その娘美々は大変な醜女で嫁の貰い手がなかった程である。信直は娘を不憫に思い、夜な夜な涙したとも伝えられている。
元春はそれを承知で彼女を娶った。元春十八歳の時である。元就は「美人と勘違いしているのではないか」と元春に問いただし、反対したと言うが、これぞと決めた女性である、として元春は聞かなかった。元春の予想通り、気立ては良い女性であったという。信直はこれに感激し、元春の忠臣となり、各地で活躍する。元春は側室を娶らず、生涯彼女だけを見つめた。 |
「あぁ、神様・・・どうか隆景様をお守り下さい。」
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元就の三男隆景の正室。阿古の名は大河ドラマでのもの。隆景との間に子をもうける事が出来なかった為、隆景は末弟の秀包を養子に迎えた。後に秀吉から「輝元の嗣子に秀秋(秀吉の猶子)はどうか」ともちかけられた時、頼みこんで小早川家の養子とした。秀秋が暗愚だったので主家の存続を危ぶんだのである。結局、英秋は若死して小早川家は断絶したが、毛利家は幕末まで続いた。 |
「毛利を想う気持ちは、兄や弟達には、負けませぬッ。」
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母は正室の妙玖。大河ドラマでの名前は可愛。安芸国甲立五龍城主宍戸安芸守源隆家の室となり、五龍の方と呼ばれる。元就の兄興元はしばしば宍戸元源と戦ったが、興元没後、元就はこれと和睦。天文二年(1533)に元源と好を通じ、翌三年一月十八日には五龍城に元源を訪ねて年賀の辞を述べた。その際、元就は五龍と元源の孫隆家との婚約を結んだのである。
後に元就はこの結婚を「惜しい」等と手紙で述べている。これは吉川や小早川に比べて家格が一段下がる宍戸氏に嫁がせた事に負い目を感じての事であが、尼子来攻の時に宍戸氏が尽くした功績、備後攻め等の活躍等を元就は高く評価しており、隆元宛の手紙では「宍戸隆家ともども兄弟として大切にしてほしい」と述べている。隆家と五龍は毛利の四本目の矢であったと言えよう。隆元夫妻もつとめて妹夫妻との親交に努めたという。元春・隆景にとっては姉にあたる。天正二年(1574)卒。 |