毛利家 主要人物紹介


「結束に勝る力無し! 今こそ新しい毛利を創るのじゃッ!!」

毛利 元就
(もうり・もとなり)
(1497〜1573)
 「戦国の鷹」の異名を持つ中国の覇者。明応六年(1497)、毛利弘元の次男として誕生。兄興元、甥幸松丸が早逝した為、毛利家五十二代として君臨する。当初は大内・尼子という大勢力に囲まれた一国人であったが、初陣で安芸守護の武田元繁を討ち破ると、安芸国内でその勢力を急速に伸ばした。息子を吉川・小早川氏の養子に送り込み、「毛利両川」体制を築くと、その後も巧みな軍略で、弘治元(1555)年には、厳島合戦にて陶晴賢を討ち、弘治元(1557)年大内氏を滅ぼし周防・長門を領有。ついで出雲の尼子氏を倒して、中国等10カ国を平定、山陰・山陽を制覇。猛将・智将を次々と破り、西国の覇者となる。元亀二年(1573)、毛利家繁栄の秘訣「三矢の訓」を残し、大往生する。




「私が皆を支えましょう。さぁ、存分に戦って下され。」

毛利隆元
もうり・たかもと
(1523〜1563)
 毛利家五十三代。大永三年(1523)、毛利元就の長男として誕生。幼名は少輔太郎。天文六年(1537)十二月、周防の大内義隆を烏帽子親として元服。義隆はとくに偏諱を与え、隆元と命名した。天文十六年八月十二日、家督を相続し備中守に任ぜられる。隆元は父元就に対して孝心が厚かった。大内氏の吉見征伐の際、陶晴賢は元就を抑留しようと企んだが、隆元は父の身代わりとなって晴賢の招きに応じようとした。また豊前松山城後詰の途次、元就の病難に代わろうとして厳島神社に祈願している。また亡母に対しても、毎日朝早く起きて念仏を一百偏唱えるなど、孝心が厚かった。しかし、隆元は永禄六年(1563)、出雲遠征の途中、芸州佐々部で四十一歳をもって急逝した。その死因が判然としなかった為、毒殺の噂が流れた。元就は悲観のあまりか、毒殺の嫌疑者として赤川元保と和智誠春を殺したほどである。




「この元春の前に敵は無い! 先陣は某にお任せあれ!!」

吉川元春
きっかわ・もとはる
(1530〜1586)
 享禄三年(1530)、毛利元就の次男として誕生。幼名は少輔次郎。安芸の国人・吉川興経の養子となり、後に吉川家を継ぐ。日山城を築城して、ここを拠点とする。弘治元年(1555)、陶晴賢を倒した厳島の戦いにおいて先鋒として出陣、敵将の弘中隆兼を打倒するなど奮戦した。実父元就に属して石見国攻略や出雲国尼子攻めに活躍し、毛利氏の中国制覇に貢献した。元就没後は弟の小早川隆景とともに甥の毛利輝元を補佐、特に山陰地方の平定を担当する。天正十年(1582)、羽柴秀吉に従う事を好まず、にわかに家督を子の元長に譲って引退した。元春は大変文学を愛し、陣中にも古典を携帯していたと伝えられる。尼子氏の富田城を攻囲中、「太平記」四十巻を書写したという驚くべき逸話も残っている。また、元春の正室は国衆の実力者熊谷信直の娘だが、この女性、大変な醜女で嫁のもらい手がなかった。元春はそれを承知で彼女を娶ったため、感激した信直は元春の忠臣になったと言われる。天正十四年、豊前国小倉の陣中において、黒田如水の用意した鮭を、持病に悪い事を知りながら、礼を失せぬように食して急死した。




「戦は兵の多謀にあらず。 父上、私が策を献じましょう。」

小早川隆景
こばやかわ・たかかげ
(1533〜1597)
 天文二年(1533)、毛利元就の三男として誕生。幼名は徳寿丸、又四郎と名乗る。同十三年、安芸国の名族・竹原小早川氏の養子に入るが、翌年から三年間、大内義隆の人質となる。後に沼田小早川家も相続。沼田高山城を拠点とし、厳島の戦いで水軍を率いて大功を挙げる。父を助けて、中国平定に活躍、永禄十二年(1569)には筑前国立花城を陥落させた。父の死後、兄の吉川元春とともに甥・輝元を補佐し、「毛利両川」と謳われた。主に山陰方面の軍略を担当した。秀吉に臣従後、四国征伐の功で伊予一国を、九州征伐の働きで筑前国と筑後・肥前国の一部を拝領。文禄・慶長の役でも敢闘した。秀吉から「輝元の嗣子に秀秋(秀吉の猶子)はどうか」ともちかけられたとき、頼み込んで彼を自分の養子とした。秀秋が暗愚だったので主家の存続を危ぶんだのである。結局、秀秋は若死にして小早川家は断絶したが、毛利家は幕末まで続いた。




「お爺様の名に恥じぬ、毛利を天下に轟かせましょう。」

 毛利輝元 
もうり・てるもと
(1553〜1625)
 毛利家五十四代。天文22年(1553)、毛利元就の長男・隆元の子として誕生。父・隆元の急逝で11歳で当主となり、才気煥発な若き当主として毛利家を支えた。初陣にて尼子氏の月山富田城を落とす。元就亡き後一門・家臣団を纏める。天正4年(1576)、西進を企てる織田信長の野望を食い止めるべく、一糸乱れぬ艦隊編成と火力兵器によって織田水軍を壊滅させ、石山城に篭る顕如上人光佐を救う。「三道併進策」により、中央進出への作戦行動を開始する事になる。別所家を組させ、宇喜多家を攻略、荒木家には織田への反旗を翻させる。天正六(1578)年には、宿敵尼子氏を滅ぼす。が、上杉謙信ら同盟者が相次いで亡くなり、滅ぼされていった為、織田挟撃作戦を断念。その後も、織田の進出に一歩も退かなかった。後に羽柴秀吉に服し、五大老の一人に列す。1600年、関ヶ原合戦では西軍大将として、大坂城を守りきるも、他の西国が敗退してしまう。大坂城にいた責を問われ、大大名が皆、取り潰しを受ける中、周防・長門の二国を守りきった。




「いかなる強敵であろうとも、ただ己の武を尽くして戦うのみ!」

 宍戸隆家 
ししど・たかいえ
(1518〜1592)
 宍戸氏は、八田知家の四男・家政が常陸国宍戸庄に住し、地名を称したのに始まる鎌倉以来の名族。朝家の代に安芸国へ下向、毛利領に隣接する甲立の国人領主となった。戦国時代初期まで毛利氏とは実力が伯仲し、たびたび抗争している。隆家は、永正十五年(1518)に元家の子として誕生。幼名を海賊といい、始め元家と称す。五龍城を拠点とする。祖父の元源が元就と和睦し、隆家は元就の娘・五龍を娶り、毛利氏から一族の待遇を受けた。以後、吉川元春とともに軍事行動を共にし奮戦する。また、次女を元春の嫡男・元長に、三女を毛利輝元に嫁がせ、毛利氏との絆をいっそう深くした。遠縁にあたる備後国の山内氏と毛利氏との仲介も果たしたと伝えられ、のちに備後国北部の支配を任され、同地の領主たちを「御一手衆」として軍事編成する。文禄元年(1592)、七十五歳で没した。




「我こそは熊谷信直なりッ! 潔く勝負致せッ!!」

 熊谷信直 
くまがい・のぶなお
(1507〜1593)
 熊谷氏の先祖は武蔵国熊谷郷を領した熊谷次郎直実である。直時のとき安芸国三入庄の地頭職に任ぜられ、その子孫が根付いて国人領主となった。信直は永正三年(1507)、元直の子として誕生。永禄三年(1560)、将軍の足利義輝から伊豆守に叙される。安芸国の守護・武田氏に臣従していたが、天文二年(1533)に武田光和と不和になり居城の高松城を攻撃されたため、主家を見限って毛利家に仕えた。同十一年、出雲国で尼子軍と激戦を展開し弟の直続を失う。同十六年、娘を元就の次男・元春に輿入れさせ、毛利氏から一門の待遇を受ける。以後、元春とともに行動、たびたび毛利軍の先鋒となり抜群の働きをする。漸次、領地を加増され一万六千石を支配。文禄二年(1593)、嫡男・元直へ「主家に忠誠を尽くせ」と遺言し、八十七歳で没す。




「天など畏れぬ! ただ、殿が心を畏れるのみ!」
 福原広俊 
ふくばら・ひろとし
(14〜1557)
 福原氏は、大江広元の次男・長井時広と始祖とする。直系は五代で途絶えたが、毛利元春の五男・広世が養子に入って六代目を継いだ。広世は元春から安芸国内部庄福原村を授与され、以後、姓を福原として毛利宗家の譜代となった。福原氏は鈴尾城を本拠とした。庶流ではあるが、戦国期には譜代筆頭の家柄として扱われ、とくに、広俊は主席筆頭の地位にあり、娘は毛利弘元の正室として嫁いだ。元就にとっては母方の実祖父となる。大永三年(1523)には、志道広良とともに一部の反対を押し切り元就の家督相続にあたって重大な役割を果たした。弘治元年(1557)正月十日に没した。また、広俊には五人の娘があり、それぞれ桂元澄・内藤元康(のち口羽通良)・和智誠春・天野隆重、杉重良といった元就の重臣に嫁ぎ、毛利氏家臣団結束にも大きな役割を果たした。




「遠からん者は音にも聴けッ! 福原貞俊とは俺の事よッ!」

 福原貞俊 
ふくばら・さだとし
(1511〜1593)
 筆頭家老・福原広俊の嫡男。始め弥五郎と名乗る。天文十九年(1550)、元就は重臣の井上一族を粛清したあと、家臣全員から起請文をとるが、貞俊が最初に署名している。これによって貞俊も、父と同じ筆頭家老の地位にあったと推測される。正直で誠実な人柄ゆえに元就から絶大の信頼を受け、隆元(元就の嫡男)の死後、元就の依頼により輝元の補佐役となり国政に参画した。元就没後は輝元の元で吉川元春・小早川隆景・口羽通良とともに「四人衆」と呼ばれる最高決議機関を結成する。小早川隆景と行動を共にし、山陽・瀬戸内方面の平定に尽力した。貞俊は五人の娘を毛利氏の重臣に嫁がせ、自己の勢力を拡大した。文禄二年(1593)、八十二歳で没した。七十五歳説もある。




「秘術のすべてを殿のために! 我が魂魄を賭して!」

 志道広良 
しじ・ひろよし
(1466〜1557)
 志道氏は、坂広秋の四男・元良が安芸国志道村に居住し、地名を姓とした事に始まる。広良は元良の嫡男で、興元・幸松丸・元就と三代にわたり毛利家の執権職を務めた。永正十年(1513)には、元就に当主興元への忠誠を誓わせる起請文を提出させているが、大永三年(1523)に幸松丸が死没すると、一部の反対を押し切り元就の家督相続を強行した。晩年、元就の要請で隆元(元就の後嗣)の後見役を務めた。広良は隆元に、「君は船、臣は水にて候。水よく船を浮かべ候ことにて候。船候も水なく候へば、相叶わず候か」と、君臣に間を船と水にたとえ、家臣が盛り立ててくれてこそ殿は存在できるのだと、君主の在り方を説いたと伝えられる。弘治三年(1557)、九十一歳で大往生した。



    戻る