譜代の重臣

「元就殿・・・、毛利を・・・毛利を託しまするぞ。」
 桂 広澄 
かつら・ひろずみ
(14??〜1524)
 桂氏は毛利弘元の代に執権を勤めた坂広秋の孫で広明の長男であったが、坂家の家督を継がず、桂村に住んで桂と称した事に始まる。坂家は弟の広秀が継ぐ事になる。広澄は、中山城を本拠として弘元、興元、幸松丸の三代に仕え、よく当主を補佐した。永正十四年(1517)、有田中井手の戦いでは、毛利家の為によく戦い、手柄をたてている。大永三年(1523)、元就の家督相続の際、忠誠を誓った重臣十五人の起請文には、子の元澄も連ねている。ところが、翌年、弟の坂広秀が尼子経久の意向を受けて、元就を誅し元就の弟元綱を立てようという謀反が発覚する。責任を感じた広俊は、自害をする事となる。桂家は子の元澄が継いだ。



「如何じゃ? これで己の無力さが分かったであろう。」
 桂 元澄 
かつら・もとずみ
(1500〜1569)
 元澄は、元就が家督を継いだ大永三年(1523)、元就に家督を継ぐように要請し、忠誠を誓った重臣十五人の内の一人に加わっている。翌年、叔父の坂広秀の謀反計画が発覚し、父広澄が自害すると、元澄も後を追おうとするが、元就に諌止されて思いとどまった。父の代からの中山城を本拠としていたが、天文二十三年(1554)、厳島神社の神主家の拠点・桜尾城を任されて移り、神領の管理・支配を担当した。翌年、陶晴賢に内応の書簡を送る。しかしこれは元就の命によるもので、偽りの内通であった。陶はまんまとそれを信用、厳島に誘い出されて討ち死にした。永禄十二年(1569)、七十歳で死去した。



「フッ、全ては戦う前から分かっていた事・・・。」
 口羽通良 
くちば・みちよし
(1512〜1582)
 志道元良の次男として誕生。広良(元良の長男)の次男という説もある。毛利家の執権だった兄・広良の死後、元就の信任を得て重要される。はじめは志道を称していたが、石見国口羽村を領したことから口羽姓に替えた。毛利家の宿老・福原広俊の娘を娶る。永禄五年(1562)、毛利家臣を代表して出雲国赤穴氏の重臣・来嶋清行と起請文を交換した。元亀元年(1570)には、出雲国湯原氏の忠勤を元就へ披露している。元就没後、輝元の元で、吉川元春・小早川隆景・福原貞俊とともに「四人衆」と呼ばれる最高議決機関を構成し国政に参画した。通良は吉川元春と行動し山陰地方の平定に尽力した。ときには前線にあって、輝元の軍事指揮権を代行することもあった。天正十年(1582)、七十歳で没した。



「・・・・・・・・・。 わしが毛利を動かしてみせる。」
 坂 広秀 
さか・ひろひで
(14??〜1524)
 坂氏の始祖は、南北朝時代の毛利親衡の次男匡時で、安芸国坂郷に住したことから坂氏を名乗った。やがて宗家に臣従して宿老の家柄となり、代々、坂城を居城とした。広秀は、毛利弘元の代に執権を勤めた広秋の孫で広明の子。主君興元をよく補佐し、永正十年(1513)には坂郷内に延常・成光名などの領地を加増されている。大永三年(1523)、元就へ宗家相続を継ぐように要請した宿老十五名のうちの一人に加わっている。ところが翌年、尼子経久の意向を受けて、元就を廃し相合元綱(元就の庶弟)を立てる策謀をめぐらし、計画が事前に発覚して元就に誅殺された。なお、坂氏は志道広良の次男・元貞によって継承され、断絶を免れている。



「悪名? ・・・フッ、知らぬな。ただ、己の道をゆくのみ。」
 井上元兼 
いのうえ・もとかね
(1485〜1550)
 井上氏は信濃国より発し、安芸国に移り小領主となった家柄。早くより毛利氏に臣従し、譜代家臣として重きをなした。元兼は、井上一族の総領たる光兼の嫡男として誕生。幼名を源太郎丸といい、弥坂兵衛と名乗った。元就に宗家を依頼した大永三年(1523)の重臣十五名による連署状にも名を連ねている。ちなみに、元兼のほかにも四名の井上一族が署名しており、井上氏が元就の当主就任に大きく寄与した事が分かる。そのためか、やがて井上一族は元就を軽んずるようになる。軍役や普請などの諸役を怠り、無断で式典を欠席したり家臣の席順を無視したりと、横柄な態度が目立った。そこで元就は粛清を決意。天文十九年(1550)七月十三日、元兼を筆頭とする井上一族三十名が誅殺された。元兼は六十五歳だった。井上宗家は、元就の妹婿であり元兼の弟だった元光によって相続された。元就はこの直後、主君に対して忠誠を誓わせる起請文を、家臣全員から提出させている。



「敗者に用は無い・・・。 立ち去れぃ!」
 渡辺 勝 
わたなべ・すぐる
(14??〜1524)
 渡辺氏は、源頼光を始祖とする。代々毛利氏に臣従しており、毛利時親が安芸国に下ったおりも行動をともにした。勝は、はじめ太郎左衛門と称し、興元・幸松丸に仕えたが、幼くして幸松丸が没したため、その叔父にあたる元就の住む多治比に自ら赴いて、宗家を継ぐように説得したと伝えられる。正式に元就へ家督相続を依頼した大永三年(1523)の重臣十五名による連署状にも、勝は名前を連ねている。主に毛利家の軍部を担当し、その武勇を知らぬ者は無かったという。ところが翌年、尼子経久の家臣・亀井秀綱と気脈を通じ、元就を廃して当主に相合元綱(元就の庶弟)を据える計画を立て、発覚して元就に誅殺された。



「殿を守りたい・・・。 ただ、それだけの事。」
 渡辺 通 
わたなべ・かよう
(1511〜1543)
 勝の嫡男として生まれ、幼名を虎市、のちに太郎左衛門と称した。大永四年(1524)、父が反逆を企てて元就に誅殺されたおり、乳母に助け出され彼女の実家・備後国山内家で養育された。成人した通が聡明で勇敢だったため、山内直通は毛利氏に渡辺家の再興を願い出た。元就はこれを許し側近に取り立てた。天文十二年(1543)、大内義隆が出雲の尼子氏を攻めて退廃を喫した際、大内軍に従った元就は進撃を受けて危機に陥る。このとき、元就の命を救ったのが通だった。通は主君の甲冑を着し身代わりとなって壮絶な討ち死にを遂げたのである。



「いざ出陣ッ! 渡辺家の名にかけて・・・。」
渡辺 長
わたなべ・ながる
(15??〜16??)
 通の嫡男として生まれる。天文十二年(1543)、天文富田合戦で父通が、元就の身代わりとなり、壮絶な最後を遂げる。元就はその忠義に報いるため、通の子・長を重臣に取り立てるとともに、以後、正月の甲冑開きの儀式を通の子孫に任せたという。通は「元就と毛利家二十一武将図」にも代表される毛利家の重臣となる。



「元就様こそが、当代の英雄に御座る。」
粟屋元秀
あわや・もとひで
(14??〜15??)
 粟屋氏は新羅三郎義光を始祖とする。義定の時代に大江広元と主従関係を結び、以後その子孫たる毛利氏に仕えた。はじめ姓を安田と称していたが、元義の代に常陸国粟屋に住んで在名を称した。建武年間、主君の毛利時親に従って安芸国へ下向した。永正十四年(1517)の有田城の戦いでは、元就に協力して領国に進入した武田元繁と激戦を展開した。大永三年(1523)、毛利家当主の毛利幸松丸が若死にし、家督をめぐって家臣の軋轢が激しくなったとき、粟屋氏総領家の元国の命によって、神仏詣と偽って上洛し、元就が当主になれるよう将軍に直訴、元就の相続実現に力を貸した。その後も元国の名代として取り纏めに腕を振るった。



「全ては元就様の御意のままに・・・。」
飯田元親
いいだ・もとちか
(14??〜1535)
 飯田氏は、信濃国飯田庄を支配した義基が、地名にちなんで姓を飯田としたことに始まる。早くから毛利氏との主従関係にあり、師貞の代に毛利時親の安芸国下向に臣従。その後、吉田庄のうち山手・中馬・石浦の代官をつとめるなど、譜代の中心的存在となる。元親は元良の次男として生まれ、四郎次郎と名乗り、のちに家督を継承。永正十三年(1516)武田信繁が来攻した有田城の戦いで武功をあげる。大永三年(1523)、毛利宗家の継承を元就に依頼した宿老十五人の連署状のなかに、元親の名も含まれており、重臣であった事が判明する。その後元就に忠勤し、天文四年(1535)に死没した。


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