1550年頃
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やがて大内氏の家臣、陶晴賢の謀反が近いと知ってからは、元就はそれへの対応を急ぎ、安芸国統一に乗り出す。 天文十三(1544)年、元就はまず、三男の隆景に安芸竹原小早川家を継がせる。翌年、妻の妙玖夫人が没すと、天文十五年には家督を嫡男隆元に譲る。 天文十八(1549)には、次男元春に妻の実家でもある吉川家を継がせると翌年、前当主吉川興経を殺害する。また、毛利家内においても井上一族の誅殺を行い、家臣団の強化に務めた。この年、隆景に小早川本家の沼田小早川をも謀略によって、乗っ取らせ、継承させる事に成功した。 これが覇業の原動力になる毛利の両川である。弱小豪族から身を起こした毛利氏が、山陰、瀬戸内海に勢力を振るうまでに躍進したのは、紛れも無く元就の非凡な智略によるものであった。 |
1557年頃
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天文二十(1551)年、陶晴賢が挙兵。主君大内義隆を大寧寺にて自刃に追い込むと、大友宗麟の弟晴英(義長)を大内氏家督とし、実権を握った。 その間、尼子経久は京都に働きかけ、備後など六ヶ国の守護職を得る。両国は一歩も譲らず、勢力を伸ばしていくのである。 天文二十三(1554)、元就は陶晴賢を討つ為に挙兵。明石口で陶軍を破る。また、尼子晴久も元就の謀略により新宮党を率いる叔父の国久らを滅ぼすこととなる。 翌年、元就は陶晴賢を厳島に誘き寄せ、急襲。晴賢を自刃に追い込む。さらに、尼子経久を破り石見銀山を支配下に置く。これにより、毛利氏の財政基盤は固まっていくのである。 弘治三(1557)には、大内義長を自刃させ、大内氏は滅亡する。これにより元就は防長二カ国を平定する。 |
1569年頃
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永禄二(1559)年、毛利軍は豊前の大友氏とも戦う事となる。 元就は朝廷へ正親町天皇即位の費用を献上したことにより、陸奥守、隆元は大膳太夫、元春は駿河守に任命される。また、この年隆元は安芸国の守護となる。そして、尼子晴久が死ぬと、元就は直ちに石見を平定する。 将軍足利義輝の命により大友氏と和睦すると、元就は月山冨田城を包囲。これを落城させ、出雲、伯耆を平定。 永禄十一(1568)年には伊予に出兵。また、大友氏との和議も破れ、筑前ぜ大友氏と戦う。翌年、山中幸盛らが尼子勝久を擁立。織田信長の援により、出雲新山城に拠り、毛利氏の諸城を攻略。また、大内輝弘が、大友宗麟の後援で周防山口に入るが、元春によって鎮圧される。また、輝元も出雲に出陣、布部の戦いで尼子勢を破る。これにより、中国地方はほぼ毛利氏の支配下に置かれる事となる。 |
1578年頃
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元亀元(1771)年、元就の病状が悪化し、吉田郡山城で没すと、孫の輝元が跡を取った。 その年、輝元は山中幸盛降伏させ、尼子勝久は敗走する。 天正四(1576)年、輝元は本願寺顕如と結び、織田信長の水軍を木津川河口に破り、摂津石山に兵糧を入れることに成功する。 天正六(1578)年、播磨三木城主別所長治が、毛利・本願寺と結び挙兵。輝元は同じ年、尼子勝久・山中幸盛らが守る播磨上月城を落し、勝久自刃。 天正十(1782)年、羽柴秀吉が毛利氏の備中高松城を水攻めの途中、本能寺の変が起こる。秀吉は、輝元と和睦し、その条件として高松城主清水宗治は自刃することとなる。 |
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