毛利家 領土の移り変わり



 1506年頃
 今日と奪回を目指す足利義植が大内義興を頼って、周防にやってきたのは、明応九(1500)年だった。もともと芸備の国人衆は京都の幕府で力を振るう細川氏に従って節を尽くせとの命が伝えられ、もし義植を加勢すれば成敗すると威嚇してきた。この時既に弘元は家督を嫡男の興元に譲り、次男松寿丸(元就)をつれて、多治比の猿掛城に引退してしまった。この多治比三〇〇貫の地も応仁の乱中、毛理氏が横領したものである。
 弘元が八歳の幸千代丸(興元)に家督を譲った明応九年は、足利義植が、大内氏を頼って周防に入った年と一致する。つまり弘元は、苦しい立場に追い込まれる事を事前に察知して、逃げ込んだのである。やがて芸備の国人衆が、大内氏から離れて細川方に鞍替えする形勢となり、弘元もそれに同調する気配を見せ始めた。
 そのうち細川氏の内紛が露呈し、「もの狂い」とされる異常性格の元が家臣の為に暗殺されると、中央の情勢は一変した。毛利氏内部で幼主興元を助けていた宿老の志道広良らは、細川寄りに傾く弘元を批判する立場を見せ始める。
 永正三(1506)年、毛利弘元が三十九歳で死ぬと、それを待ってたように毛利家は大内家に従属する。
 弘元の死因は酒害といわれる。後年、元就はその事を挙げて、酒慎むように子供達に諭しているが、弘元の死を早めたのは、複数の大勢力に対する去就に悩みつづける心労に違いない。やがて達成される元就の覇業の底に秘められているのは、父親を通じて痛感した大国の圧迫に翻弄される弱小国人領主の悲哀を克服する自立への強烈な志向だっただろう。



 1523年頃
 興元もまた父と同じ酒害のため二十四歳の若さで永正十三(1516)年に他界しその子幸松丸が二歳で毛利氏を相続する事となる。永正十四(1517)年、武田元繁の大軍が芸北に侵入してくるという緊急事態に毛利氏は直面した。武田軍に攻められている有田城の救援で武勲を元就は老臣達からの信頼も集まっており、幸松丸が九歳で他界すると、老臣達十五名が連署して元就に家督を相続することを申し入れてくると、元就は快諾して郡山城に入り、毛利本家三千貫を引き継ぐ事となる。そして毛利氏は、野望に燃えるこの異能の人物を迎えたために、驚異的な躍進を遂げるのである。
 尼子氏の勢いが振るうにつれて、安芸の国人衆の多くは、大内氏を離れて尼子方になびきはじめており、興元も晩年にはその流れに沿っていたのである。有田合戦ののち、元就が尼子方に立って鏡山城を攻撃している事もそれを物語っている。
 元就が本家を相続して間もなく、異母弟元綱を当主の座に控えよとする陰謀が露顕した。元就は元綱及び加担した渡辺・坂一族を誅伐し、背後から糸を引いていた尼子氏と絶縁、大内氏に服従を誓った。



 1532年頃
 尼子氏の芸備における勢力が拡大していく中、安芸の国人衆のほとんどは大内方を離れ、尼子に組する事となる。
 そんな中、大内氏は着々と安芸、石見での勢力奪回を図っていった。毛利氏も大内方から所領を与えられ、着実に安芸国内における勢力を伸ばしていくのである。 享禄元(1528)には、元就は大内氏とともに、安芸国内の有力な国人衆、高橋氏を滅ぼし、石見にまでその所領を拡大する。
 さらに元就は興元時代から争っていた宍戸氏当主元源の孫隆家に娘五龍を嫁がせ、同盟を結び、熊谷、天野、香川、己斐等の国人衆を次々に陣営に引き込んで、尼子氏との抗争に備えた。
 また、元就は長男隆元を人質として、大内氏に送りこみ、大内氏からの信頼を不動のものとした。



 1541年頃
 天文九(1540)年尼子軍は大軍を率いて吉田郡山城を囲む。大内義隆は陶隆房(晴賢)を総大将として援軍を送る。翌十年には、尼子軍は大敗を喫して敗走。安芸国内における尼子勢力は急速に衰えることとなる。
 またこの年、尼子家の大黒柱経久が享年八十四歳で没す。 元就はこの期に、安芸の武田信実を攻め、これを破る。信実は出雲に逃れここに安芸の名門武田家は滅亡し、元就はその所領を得るのである。
 天文十二年(1543)、尼子氏の勢力低下を期と見た大内軍は、出雲攻めを実行し、元就も従軍することとなるが、敗れてしまう。元就は大内軍の殿を務め、命からがら吉田郡山城に帰還するのである。
 これにより、力を失った大内の勢力をまたもや尼子が吸収していき、中国地方の地図は大きく塗り変わるのである。



 1550年頃
 やがて大内氏の家臣、陶晴賢の謀反が近いと知ってからは、元就はそれへの対応を急ぎ、安芸国統一に乗り出す。
 天文十三(1544)年、元就はまず、三男の隆景に安芸竹原小早川家を継がせる。翌年、妻の妙玖夫人が没すと、天文十五年には家督を嫡男隆元に譲る。
 天文十八(1549)には、次男元春に妻の実家でもある吉川家を継がせると翌年、前当主吉川興経を殺害する。また、毛利家内においても井上一族の誅殺を行い、家臣団の強化に務めた。この年、隆景に小早川本家の沼田小早川をも謀略によって、乗っ取らせ、継承させる事に成功した。
 これが覇業の原動力になる毛利の両川である。弱小豪族から身を起こした毛利氏が、山陰、瀬戸内海に勢力を振るうまでに躍進したのは、紛れも無く元就の非凡な智略によるものであった。


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