厳島合戦逸話
★戦いののぞんでの用意
・合言葉は、「勝つ」と問うと「勝つ勝つ」と答えること ・侍は腰兵糧を持つな。下士は1日分を持つこと ・朝食は焼き飯に梅干を持ち、梅干を食べた後に、焼き飯を食べること ・伝言がある場合は小声で次第に送ること |
★桂元澄、桜尾城に留まる
厳島合戦が起こる前、元就は重臣の桂元澄をして陶方に謀略を仕掛けた。陶晴賢に元澄が裏切ったように見せかけ、何とか陶軍を厳島に誘い込むための謀略であったが、この折り元澄は晴賢を信用させるための誓紙を7枚書いている。元澄の父、広澄は元就の家督継承の際に弟の坂広秀が関与していたことに責任を感じ、自害しているのである。勿論この約束は実行されなかったわけだが元澄にとっては、たとえ謀略と言えども約束をしたということにより自分は陶に弓を引けないと感じ、合戦は息子たちに任せて自分は桜尾城に留まった。謀略とは言え、戦国時代にはこのような形で義を重んじるといった側面もあったのである。 |
★隆元の一言
元就は隆元に対し、「自分が死んだら困るので、隆元は残って、城を保ってほしい」と言った。すると隆元は、「渡海して合戦に行った者がことごとく討ち死にすれば、弓矢は成り立ちがたいでしょう。そういうところで自分が残っても仕方がありませぬ」と答えた。この一言でひるんでいた将士も奮い立ち士気は上昇したという。 |
★船を借りる
合戦前夜、元就は来島通康に対し借船の援を頼んだ。そのときの口上が、「一日だけ船を貸してくだされ。宮島に渡ったらすぐにお返し申す」というものだった。戦に勝てば、当然船は必要なくなるのであるから、宮島に渡る間だけ貸してくれ、というものであった。元就の、勝負をわずか1日でつけてしまおうという決意の現れでもあった。この一言で、通康は、その心に期するものがあるのを感じ取り毛利軍が勝つことは間違いないと判断したという。陶のほうも同じく借船の依頼をしてきていたが、ただ貸してほしいといってきただけであった。 |
★みんな同じ系列
合戦直前の軍議のとき、先陣争いをする諸将に向かい元就は、それぞれの出目の偉人をもちだし、「出羽隆綱と熊谷伊豆守は佐々木高綱と熊谷直実の末裔だからそれにならい先鋒に、吉見正頼と宍戸隆家は源範頼と源知家の末裔だから副将軍、隆景は土肥実平の後裔だから追手の副将軍となれ。不思議なことにみんな同じ系図から分かれた身だ。いわば一心一和の軍だ」といったので、争いがぴたりとやんだという。 |
★和歌で命を助けられる
最後の最後まで抵抗した弘中隊もついに全滅。そのあとすぐ山狩りが行われたが、ここで一人の男が捕まった。元就は彼を見知っていて、狂歌を一つ作れば助けてやろうといった。そこで男はこのような歌を作った。「かけてしも頼むや毛利(もり)の締だすき命一つに二つ巻きにして」----これを聞いて元就は「それほどうまい歌ではないが、このような折りではまあまあだろう」と命を助けてやった。さらにもう一人の捕虜にも同じように歌を作らせたが、こちらの方は「名を惜しむ人といえども身を惜しむ 惜しさに代へて名をば惜しまじ」と詠んだ。「前の歌よりもこちらの方が優れている。これも助けてやろう」ということで、この男も助けられた。「陰徳太平記」は、この話を人々が美談としてもてはやしたと結んでいる。 |
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