■ RJW歴史人物辞典 【15】 |
大内義隆 【おおうち よしたか】 |
![]() 【正室】万里小路貞子(万里小路秀房女) 【役職】太宰大弐 兵部卿 左京大夫 侍従 ■西国の雄■ 西国の名門、周防・大内家第三十代当主大内義興の嫡男として生まれる。 幼名は父・義興と同じく亀童丸。 十八歳で初陣。二十二歳で第三十一代当主の座につく。 山陰の尼子氏、九州の大友氏、少弐氏との抗争に身を投じ、武将として意欲的な活動を見せる反面、二十三歳の折、三条西実隆や近衛尚道やに賜物をするなどして、従五位上に叙せられている。五年後の天文三年には、従四位下へすすみ、同五年の五月には後奈良天皇の御即位料を献上して、太宰大弐に任ぜられ、昇殿を許される地位を得た。 これには、宿敵とする少弐氏よりも上位の地位を得てその権威により九州制圧を図ろうとする戦略上の理由にもよるが、根底には義隆の公家願望が窺える。 その後も昇進を続け、三十七歳の時に従二位にまで達している。 ■転機の出雲遠征■ 文治派で有名な義隆ではあるが、元から文治政治に偏っていたわけではない。 九州制圧を目指し、北九州の名族・少弐氏を滅ぼし、大友氏と講和を結んだり、安芸郡山を拠点とする毛利氏を包囲していた出雲の尼子氏とも争いつつ、安芸守護・武田家も滅ぼすなど積極的に領土拡大を進めていた。 しかし、順調に名実ともに日本一の大名へと近づいていたかに見えた大内氏に、この後、転機がおとずれることとなる。 尼子征伐の為の、出雲遠征である。 天文十二年の出雲遠征で大敗を喫し、敗走中に溺愛していた養子・晴持を失ったことをきっかけに、以後義隆は武略を顧みる事をせず、文事にふけるようになる。 故に教養豊かで有職故実に精通している相良武任を重用し、陶隆房(後の晴賢)ら武断派との対立を招いた。 文化偏重の政策は、武断派と文治派の対立だけではすまなくなり、天文二十年ついに陶隆房が謀叛をはかり、義隆は山口を逃れ、長門・大寧寺にて自刃して果てるのである。 この時、最後まで義隆に付き従ったのは陶隆房と同じ武断派の冷泉隆豊であった。 しかし、義隆は山口の地に趣味の域を超えた高い水準の室町文化を残したのであった。 ■養子■ 大内晴持(一条氏) ← 出雲遠征にて戦死。 大内義長(大友氏) ← 周防・大内氏32代当主。 毛利氏に敗れ、自害。 |