■ RJW歴史人物辞典 【13】 |
高坂昌信 【こうさか まさのぶ】 |
![]() 【幼名】源助・源五郎 【別名】春日虎綱、春日正忠 自らの著書「甲陽軍鑑」にて、己を『逃げ弾正』と評し、海津城代として上杉謙信の川中島進出を防いでいた甲斐武田家の誇る名将の一人・高坂昌信について述べていきたいと思う。 石和の豪農・春日大隅の子で幼名を源五郎又は源助と言った。 天文十一年、16歳の時に奥近習として出仕。当時、晴信の寵童だった事を思わせる誓詞が残されている。その書面の内容は「源助に対する気持ちに変わりはない。このことで色々と騒がれ、走り回られては、かえって疑いのもとになり迷惑である」というものである。 後、使い番を経て二十六歳で侍大将となり、騎馬100騎を与えられた。翌年、名を春日弾正忠正忠に改め、騎馬150騎を預けられる身となり名実共に武田の重臣に列せられた。 この異例の出世の早さは昌信を信玄が溺愛していたためという噂まで流れた。 また、信州小諸城代に任ぜられると晴信の期待通り佐久地方を抑え武田の地盤を固めた。 35歳の時の第四次川中島の合戦では、海津城の城将として北陸の動きを見張り、先鋒隊にも加えられた。合戦後、北信濃の経営を任され、その功績により信州の名族・高坂家の名跡を継ぐ。(武田支配を地元民に意識させない為でもあった)しかし、晩年には春日姓に復している。 47歳の折、主君・信玄の死に際し剃髪。(喪を三年秘する為に追い腹を禁じられた為か)以後、血気はやる勝頼を諌めるがかえって疎まれる結果となっている。 長篠の戦では、山県、内藤らと供に息子の昌澄をなくしている。 しかし、敗戦の見苦しさを感じさせぬよう細かい配慮を忘れなかった。 そして、三年後天正6年五月七日。武田家の滅亡を見ることなく病死する。 享年52歳。 【甲陽軍鑑について】 甲陽軍鑑は、高坂が大部分を著し、甥が書き継いだと言われる書で、武田家の興亡の歴史をはじめ、甲州流又は武田流と呼ばれた軍学の理論、兵制、軍団の編成と機構、兵器の解説、さらに訴訟公事、信玄にまつわるエピソードがもりこまれており、本編19冊、本書4冊の計23冊にわたる。 江戸時代には武家の軍事教科書として広く読まれた。 戦国三弾正として保科の槍弾正、真田の攻め弾正と供に、高坂の逃げ弾正と出てくるのもこの書である。 |