■ RJW歴史人物辞典 【12】 |
安倍晴明 【あべの せいめい】 |
![]() 【役職】天文博士、主計寮次官、穀倉院別当、播磨守 【官位】従四位下 平安時代最強の陰陽師「安倍晴明」、その生い立ちは謎に満ちている。しかし、今なお人々を魅了してやまないのはなぜだろうか。 父は「安倍益材」(あべのますき)、しかし、晴明に関する説話にはほとんど登場しない。唯一登場するのが、江戸時代、作者不明の浄瑠璃「したのづまりぎつね 付あべノ晴明出生」だけで、ここでは「保名」(やすな)と名が変更されている。 また、母は謎の人「葛之葉」(くずのは)で、白狐であるといわれている。 しかし、最近の説では、人間には間違いないが、故あって、実在性を明かす事ができなかったとある。 明かす事のできない事とは?それは晴明の母が「山の民」と呼ばれていた人々だったからである。「山の民」とは、大和朝廷に滅ぼされたり迫害された「縄文人、先住民族」を意味し、平安期、都人は自分達と区別するため「狐、熊」といった蔑視的表現で呼び、人ではなく物として扱ったのである。 ただ晴明の母は、占術や巫女的能力にすぐれていた白拍子と呼ばれる人であったとの説もあり、その素質が晴明に引き継がれたものと推測される。 さて、「安倍晴明」であるが、40歳くらいまで、確たる記録には登場しない。幼少のころ「賀茂忠行」(かものただゆき)という陰陽師の元へ弟子入りしたという記録のみで、文献に登場するのは、960年、天文得業生としてが最初である。晴明は陰陽寮(おんみょうりょう)の天文道に属していた陰陽師であるという。 陰陽寮について少しふれると、中国の太史局をモデルにした役所で(今でいう「科学技術庁」のようなもの)四部門に分かれていた。1、陰陽道 土地の吉凶を占う 2、天文道 月や惑星の動きを観測して吉凶を占う 3、暦道 暦を作成、日柄の吉凶を占う 4、漏刻 時刻を扱う 以上であるが、中でも重きを置かれたのが、陰陽道で、占いと風水を行うのが主たる仕事であったという。 しかし、平安中期以降、陰陽師の役割が変わり、占いに加えて、御祓いや呪術的な機能もはたすようになった。なぜ、そんなことが可能となったのか?それは、中国の呪禁や密教など古今の典籍に通じていたこと、宗派にとらわれることなくさまざまな技術を取り入れる柔軟性が陰陽道にあったからとされる。 さて、このあたりから、いよいよ表舞台に登場するのが「安倍晴明」である。 「安倍晴明」について、語られているは「今昔物語」「宇治拾遺物語」「大鏡」などで、いろいろあるがその中で晴明のすごさを物語る話として、「今昔物語」に、「僧侶や公家たちに、式神の威力を人目見たいと懇願された晴明は、草を一つかみして蛙に乗せたところ、一瞬にして蛙はつぶれてしまった」とある。 その他有名なエピソードがたくさんあり、項目だけあげると「藤原道長の命を救う」「花山天皇の頭痛をなおす」「式神を自在にあやつる」「蘆屋道満との術比べ」など、その超能力ぶりが語られている。 晴明の使った呪術についてもふれると、まず、「射復蔵鈞の術」物事を見通す、人の前世を視覚的にとらえる術、「穏形術」他者から姿を見えなくする、気配を消す術、忍術微塵隠れはこの応用とされる。「式神使役術」晴明の説話の中でよくでる、十二神将の式神を駆使したという。「身固めの術」呪いをかけられた人を保護し、呪いをはねかえすという。また、祭祀も数々行っており、中でも 「泰山府君祭」は秘祭中の秘祭で、この祭祀は並みの陰陽師では務まらなかった。延命長寿や消災に利益あり。また、雨乞いの祭りとして「五龍祭」なども、まだまだあるがいかにすごい人だったか少しはおわかりいただけると思う。 のち、天文博士、さらに蔵入所に入り、天皇直属の陰陽師として占いや御祓いを行い、従四位下という陰陽師としては異例の高位まで上りつめる。その裏には藤原道長の強いひきたてがあったという。 「安倍晴明」の最大の功績は、当時陰陽師の支配的位置にあった賀茂家に対し、 安倍家をそれに匹敵する勢力として確立したこと。のち、晴明の名声もあって力関係は逆転し、「安倍家・(後、土御門家と改名)」は陰陽道の宗家として、ゆるぎない地位を築いたとされる。その流れは鎌倉〜戦国時代まで続き、「神楽」「能楽」といった芸能も陰陽道の影響を色濃く受けているといわれている。 |