■ RJW歴史人物辞典 【11】 |
張騫 【ちょうけん】 |
![]() 【字】子文(定かではない) 【官位】前123−博望候 前115−大行(たいこう:外務大臣) 前漢7代皇帝・武帝時代(在位:前141〜前87)の外交使節であり、前139年、武帝の命で長年の宿敵である匈奴(きょうど)を挟撃するためにはるか数万里も離れた西国、月氏(げっし)国への軍事同盟の使者として派遣された。 張騫は従者100余名とともに漢を発つが,途中で匈奴の領土内を通過しなければならなくなり、巡回中の匈奴兵に捕らえられて匈奴の本拠へ連行されてしまった。 匈奴では王を単于(ぜんう)と呼び、ときの軍臣単于は張騫を月氏への同盟の使者であると知って危険を察知し、張騫ら漢の使節団を拘束した。 そこで張騫は匈奴の妻を娶り、子を設けてあたかも幸せな家庭生活をおくる事で単于をはじめ、匈奴の民に逃走する意思はないと思わせることにした。 そして十余年が過ぎ、もう監視もつかなくなった頃、漢が匈奴に攻め込んだ。 張騫らはこの騒ぎに乗じて、妻子や数人の部下と共に匈奴を脱出、一行は再び月氏国を目指した。 月氏国は匈奴と烏孫(うそん)という北方民族に追われ、はるか西へ敗走して大月氏国と名を改めていた。 前129年、ついに大月氏国へたどり着いた張騫は当初の目的を果たすため、月氏王に面会を求め、王宮におもむいた。 しかし、月氏王は女王であり、匈奴への恨みを晴らすどころか戦を拒み、すっかり平和主義の国になってしまっていたため、軍事同盟は失敗におわった。 張騫の十年以上の苦労は水泡に帰してしまったのである。 それから一年ほど大月氏国で滞在したが、張騫はついにあきらめて帰国する事にした。 帰路は匈奴の領土を避けて通ったが、運悪く遠征していた匈奴兵にまたもや捕まってしまった。 一年ほど捕らわれていたが隙を見て脱出、紀元前126年についに漢へ帰国することができた。 張騫は西域の情勢を事細かに武帝に報告し、領土拡大を狙う武帝を大いに喜ばせた。 軍事同盟という初期の目的は果たせなかったものの、張騫が漢にもたらした功績は大きかったといえる。 そして紀元前126年、張騫は匈奴で暮らした経験から案内として匈奴征伐へ従軍し、その功績から「博望候(はくぼうこう)」に封ぜられた。 しかし紀元前121年,張騫は衛尉(えいい)に任じられ,兵一万を率いて匈奴へ遠征したが、道に迷い李広(りこう)将軍との挟撃作戦に遅れてしまったため,李広の兵が全滅寸前となる大敗を喫してしまった。 この罪により死罪を言い渡されるが、今までの功績と贖罪(金で罪を償うこと)で冠位剥奪で許された。 その二年後、武帝はかねてより考えていた西域諸国との交易を開くために外交使節として張騫を烏孫へ派遣した。 漢の勢力を西域にしらしめ、他国との友好を深めた。 この功績により,紀元前115年、張騫は大行(たいこう:今で言う外務大臣)に任じられ、九卿のひとりに加えられたのである。 このとき張騫はすでに五十になろうという年齢であった。 二度に渡る過酷な旅が彼の寿命を縮めたのか、張騫はその翌年(前114年)、その生涯を閉じた。 同時代に生きた司馬遷(しばせん)は彼の著書,大古典とも言える史記で張騫を次のように評している。 「人となり彊力(きょうりょく)、寛大にして人を信ず。蛮夷(ばんい)も之を愛す」 つまり体躯は立派、精神的にも非常に強靭であり、他人に対する寛容な態度を持ち、信じる度量を持っていたので、他の民族からも愛されるほどであったということである。 まさに外交官にふさわしい人物だったといえるだろう。 張騫のたどった道はそれ以後、さらに東西へ伸びることとなり、ローマまで達して重要な交易路として発展し、まさに東西交易の大動脈になったのである。 いまでは「シルクロード」と呼ばれ、日本にもこのシルクロードを通って西域から運ばれた数々の宝物が現存している。 |