【生没年】1540年(天文9年)〜1591年(天正19年)
【名】小竹→木下小一郎→羽柴長秀→羽柴秀長→豊臣秀長
【通称】大和大納言
豊臣秀吉の弟であり家臣。尾張国愛知郡中村に竹阿弥(弥衛門ともいわれる)の子として生まれる。母はなか。20歳のときに、織田家に仕えていた兄秀吉に家来になってくれないか誘われ、はじめは拒んだがこれに応じ、百姓生活を捨てて秀吉の家来になる。以後、秀吉の腹心として、片腕として、代理として、外向的な秀吉にかわってよく内をよくまとめ、影で秀吉をよく支えた。
初陣は1564年の美濃方大沢次郎左衛門正秀の鵜沼城攻めの際で、この時斎藤家の長井勢におそわれた秀吉を長井勢の側面を突く事によって救っている。その後も秀吉に従軍し、各地を転戦、功を上げた。特に1577年の中国攻略戦では但馬攻略の総大将となり、竹田城や他の城を落としつづけ、翌年には但馬本城の出石城の山名豊国を降伏させて攻略に成功している。本能寺の変後も秀吉に従い、1585年には四国征伐の際長宗我部元親を降伏させた功績で大和郡山城に入城し、合計108万石の大大名になる。その後、兄秀吉が天下を統一し、千利休とともに豊臣政権の柱として活躍した。
1587年8月には大納言に昇進するも同年11月30日に発病、この時はすぐに回復したが1589年に再び発病し、娘と養嗣子の祝言を見届けたあと1591年1月22日に大和郡山城内で没した。51歳の若さであった。葬式の見物人は約20万人であったという。法名は「大光院殿前亜相春岳栄大居士」
秀長の死後、豊臣政権では秀吉の命で千利休や甥の秀次が自刃、さらに朝鮮出兵での失敗など不幸なことが続き、やがて豊臣家は滅亡することになるのである。
秀長はふくよかな丸味をおびた顔立ちであったとされ、性格は温厚で人格は高く、周りからも諸侯からも慕われていたといわれている。終始豊臣家のナンバー2に君臨した秀長は、秀吉を支えつづけ、目立とうとはせず、無欲でその戦功は秀吉にゆずった。そんな秀長は数少ない「名補佐役」であった。 |