■ RJW歴史人物辞典 【9】

 姜維 【きょうい】
  【生没年】202年〜264年
  【字】伯約(はくやく)
  【官位】魏:中郎将  蜀:奉義将軍などを経て、大将軍


 天水郡冀県出身。 元は魏の中郎将、しかも地方の軍の一部を任されていただけの若者。 それでも小さな頃から優れた若者との評判も高く、郡太守に気に入られ将来を嘱望されていた、とある。 諸葛亮の北伐の際に、一度は大軍で敵を追い払ったが、その才能を高く買った諸葛亮の罠に嵌まり、また大義を解かれて降伏する。 以後、その後継者として常に側で学び、また転戦を続けて活躍する。人材不足の蜀にあり、新進気鋭の逸材である。

 得意武器は槍、無双と称えられた趙雲と互角に渡り合い、感嘆されたほどの腕前。相手から放たれた矢を掴み取り逆にその矢で敵を射殺す、という軽い身のこなし、先述の武芸の腕前を相俟って、ま
さに逸材といえる人材。また、兵士と苦労を分かち合い、前線においても彼らと共にあって慈しんだため、兵士たちからは絶対の信頼を得ていた。 腐敗した文官連中からは嫌われていたが、高潔な人柄で人気は高かった、とある。 一時は司馬昭をも追い詰めるが、やはり自国の宦官らによって撤退せざるをえなくなってしまう。このように姜維の北伐は、戦闘には勝利しながら撤退せねばならないと言う事がしばしばあった。 最後は、蜀の降伏に立ち会った後、鐘会の謀反に荷担し再び回天の悲願を、と願ったが露見、乱入した兵士たちと戦うが力尽き自刃。

●人物像

 彼の師匠・諸葛亮も清潔な生活を送っていたが、彼もまたそうであった。賄賂を嫌い、過度な派手さを嫌い、権力や金による華美な生活を特に嫌った。 正史によると、彼の家は庶民と同じで、しかもオンボロ。寒さや雨をようやく防げるような陋屋で、妻や子供も服は質素で、食事も庶民と同じだったという。余った財貨は困窮している人に与え、それでいて見返りを求めない。給料の多くは戦費に回し、兵士たちの生活が少しでも楽になるように取り計らったという。 師・諸葛亮も同じように暮らしていたが、姜維も同じように暮らした。師の薫陶もあっただろうが、やはり、本人の高潔な性格もあった。 「大将軍」という、最高権力者でありながら政権闘争を嫌い、また権力を使って私利私欲を貪る輩を嫌った。 当時の蜀漢は宦官の黄皓が巾を利かせて、大臣たちも多くは賄賂でご機嫌を伺うような有り様。 劉禅の弟の劉永が、「黄皓を除け」と諫言して逆に排除され、他の家臣が恐れ口をつぐむ中で、姜維だけが「奴を排除しろ」と強く諫言している。 権力は自分のために使うのではなく、民と国のために使うべきだ、という彼の信念がそうさせたのだ。 「姜維は己の権力で出兵を繰り返し、国を滅亡させてしまったではないか!」という意見もある。確かにそれは一理ある。だけど、蜀の存在意義。それは、何としても魏を滅ぼして「漢」を復興させる、劉禅を名実ともに帝として君臨させる。これしか、蜀の国が存在する理由は無かったのだ。姜維は、その国是を遂行するために努力した。 武人でありながら学問を好み、権力者でありながら私利を貪らず、権力争いなどしない。賄賂を嫌い、筋を通す事を好む。当時の腐った政治家たちからは嫌われたようだが、権力に媚びるのをよしとしない人からは、絶大な信頼を得ていたという。

●人物評価
 
 蜀の滅亡時の降伏派で、降伏文書を書いた郤正の文。つまり、姜維の北伐にも反対していた(推理)人なのだが、その彼が姜維の清廉さ・高潔さを称える文章を上奏しているのである。北伐は反対だったが、「素晴らしい人間だった」と同じ国に仕えていた人物が書いている。

●役職の推移
 (魏)中郎→中郎将(蜀)奉義将軍→征西将軍・中監軍→右監軍・輔漢将軍→鎮西大将軍→衛将軍→大将軍