■ RJW歴史人物辞典 【8】

 千 利休 【せんの りきゅう】
  【生没年】1522(大永2年)〜1591(天正19年)
  【初名】田中与四郎
  【号】 不審庵・抛筌斎


 現在の茶道、千家流の始祖であり、茶聖と称せられる。 安土桃山時代の茶人、織田信長・豊臣秀吉の茶頭を務めた。 法号宗易であり、利休という居士号は正親町天皇より下賜されたと言われる。

堺の魚問屋・田中与兵衛の子として生まれ、若くして茶の湯に親しみ、17歳で北向道陳、ついで武野紹鴎に師事した。また堺、南宗寺の大林宗套に参弾し、禅の影響を強く受けた。確かな記憶にみえる最初の 茶会は23歳の時で、65年には松永久秀の茶会に招かれ、茶匠としての才能を現した。  1568年には上洛した信長が堺に矢銭(軍事金)を課すと、町衆は抗戦派と和平派に分かれた。このとき、和平派として信長に近づいた商人・茶人の津田宗及・今井宗久と親しかった関係から、信長に茶頭として仕えることになった。1573年の京都・妙覚寺における信長の茶会の招かれ、さらに75年には同じく信長の茶会で点茶の役を務めている。 ただ信長の名器蒐集(名物狩り)には批判的であったらしい。  1582年の信長の死後、秀吉の重宝されたが、たんなる茶頭としての立場を越えた、いわば側近としての役割が次第に強くなっていった。85年、秀吉の関白就任御礼の禁裏茶会では、正親町天皇に献茶する秀吉の後見役を務め、87年京都北野天満宮における歴史的な茶会「北野大茶湯」を推進し、「天下一の茶匠」の名を不動のものとした。  利休の茶道精神は「和敬静寂」そして「利休七則」にまとめられている。「茶は服のよきように立て 炭は湯の沸くように置き 冬は暖かに夏は涼しく 花は野の花のように生け 刻限は早めに 降らずとも雨の用意 相客に心せよ」これはあるとき、弟子から「茶の湯とはどのようなものか」と問われたときに、利休が答えたものでもある。弟子は「それくらいのことならよく存じております」といったので、利休は「もしそれが十分にできたなら、私はあなたのお弟子になりましょう」と言ったと伝えられている。易しそうに見えて、極めることはなかなか難しいという茶の湯の心がここに示されている。

 茶人としての名声を欲しいままにした利休であったが、89年大徳寺山門の楼上に自身の木像を置いたことなどが不敬不遜の行為としてとがめられ、91年、秀吉の命により自刃した。享年70歳であった。「人世七十 力ヵ希咄 吾這宝剣祖仏共殺 提ぐる我得具足の一太刀 今此の時ぞ天に抛つ」これが遺偈である。 千家はその後、大徳寺にいた利休の孫千宗旦が還俗し、家を再興し、その次男の宗守が武者小路千家、
三男の宗佐が表千家、四男の宗室が裏千家のそれぞれ祖となる。
 
 従来の茶会は餐宴的な遊興性が強かったが、料理の簡素化をはかり、茶会の趣向にわびの美意識を貫いた。 妙喜庵待庵のような二畳敷という極小の茶室をつくり、茶陶についても、長次郎を指導していわゆる楽焼をつくり、「宗易(利休)型」茶碗を完成させた。その他の道具のデザインにも独創的な試みを企て、従来の名物中心の茶に対し、新作・無名の「高麗茶碗」や「瀬戸茶碗」などを積極的にとりあげた。また、掛物は禅の墨跡を中心にすえ、禅の「枯淡閑寂」の精神を茶の湯に求めた。