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【生没年】1557(弘治3年)〜1612(慶長17年)1月26日
【別名】亀井茲矩、真矩、之子
【官位】武蔵守
尼子家臣、のち羽柴・豊臣家臣。尼子家重臣湯永綱(三郎左衛門)の子。亀井家を継いで以降の亀井茲矩という名前の方が有名。 湯氏は尼子氏と同じく佐々木源氏の一門で、出雲国湯ノ庄を領し湯氏を名乗るようになった。本拠は玉造要害山城。
永禄12年、山中幸盛(鹿介)ら尼子家旧臣は、一族の内紛で京へ逃れていた尼子勝久を擁して尼子家再興の軍を挙げるが、新十郎も父永綱とともにこれに参加したと思われる(永綱は翌年の月山富田城攻撃の際に討死)。 元亀元年(1570年)尼子軍は布部山の戦いで毛利軍に敗れ出雲国から撤退するが、天正元年(1573年)には因幡国で勢力を盛り返し、新十郎も主力として活躍している。 天正2年(1574年)鹿介は新十郎に亀井秀綱の次女を娶らせ、亀井家を相続させた。 当時出雲きっての名跡亀井家は、棟梁の秀綱が毛利方の杉原盛重に謀殺され断絶していた為、鹿介が秀綱の長女を娶り家督を継いでいた。 だが鹿介は山中家の家督を相続する事となり、その代わりに古くから亀井氏と親交が深かった湯氏の一族である新十郎を選んだのだろう。
のち毛利家の吉川元春による因幡侵攻の軍を恐れた山名豊国の裏切りにより、尼子軍は因幡国を追われるが、織田家の援助を受ける事に成功し、羽柴秀吉の軍に配属された。 新十郎も秀吉に重用され、秀吉の本隊に随行することになる。 尼子軍は天正5年(1577年)対毛利の最前線である播磨国上月城を任されるが、毛利軍はこれを大軍で包囲。 秀吉は別所長治の反乱により援軍を送れる状況になく、上月城は孤立してしまう。 新十郎は秀吉の命で単身上月城に潜入し、勝久・鹿介に脱出を薦めるが、彼らは城兵を見捨てる事を潔しとせず、これを拒絶。 尼子氏は滅亡した。
以後新十郎は秀吉の配下として尼子の遺臣を率い、因幡国鹿野城を毛利軍から死守した功により、鹿野城主に任ぜられる。 秀吉からどこを領国に欲しいか聞かれた際に琉球と答え、「琉球守」という異名を与えられたエピソードもある。 関ヶ原の合戦では東軍に属し、徳川家康の命で因幡・伯耆国を平定、因幡国で3万8千石を与えられた。 領内で新田開発、茶・桑の栽培など産業振興に努めるとともに、南蛮貿易も行った。 慶長17年(1613)鹿野城で没。 56歳。 嫡子政矩は津和野藩の藩祖。
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