■ RJW歴史人物辞典 【6】

 小野妹子 【おののいもこ】
  【生没年】不詳(6世紀〜7世紀)
  【別名】蘇因高(そいんこ・中国名)
  【官位】大礼(冠位十二階の5番目 冠の色は赤)


 推古朝の外交官。古代和邇部(わにべ)氏の同族で近江国滋賀郡小野村(大津市)出身。 推古天皇15年(西暦607年)に鞍作福利と共に、遣隋使となる(「日本書紀」推古紀15年7月条)。 この時、妹子が持参した国書が隋から見ると大変無礼なものであった。 『日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。 恙無きや云々。』の文書がそれである。 隋の2代皇帝・煬帝は大いに怒ったが、日本との親交を結ぶ必要を感じていたので、裴世清を妹子に付して翌年(西暦608年)日本に送った。 大和朝廷は裴世清を手厚くもてなし、彼の帰国に当たって、妹子と吉士雄成とを第二次遣隋使として隋に伴わせた。

 ところで、607年の遣隋使の帰途、隋から持ち帰った国書を紛失してしまう。 これは、その返書にある大和朝廷への暴言を、短絡的な豪族達に見せたくない妹子の策という見方が強い。 冠位剥奪・流罪の危機に陥りながらも、再び遣隋使の大使として任命される。 歴史書の記録はここまでである。

 また、文化人としての伝説も残っている。 妹子は聖徳太子の教えに従って出家し、太子沐浴の家の隣にお堂(後の池坊)を建てた。 仏像に毎日花を供えていたので、生け花が上達した。 これが子々孫々受け継がれ池坊流の華道に発展したといわれている。 妹子の墓は太子町に残っているが、この池坊流の創作伝説である可能性が高い。 

 小野妹子の子孫で語学・学問に堪能な人物が何名か挙げられる。 歌人の小野小町・書家の小野道風・漢詩人の小野篁が代表例である。 また、藤原純友の乱を鎮圧した小野好古などの武人もいる。 武蔵七党の横山党・猪俣党も妹子の傍流である。