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【生没年】1665(寛文七年)〜1701(元禄十四年)
【妻】三次浅野家の次女、栗姫。 阿久里の方。 謡泉院
【官位】従五位下 内匠頭
播州(兵庫県)赤穂4代目藩主。 浅野采女正長友(あさのうねめのしょうながとも)の嫡男として、江戸で生まれ、家例にしたがって幼名を又一郎と称した。 1675(延宝三)年に父を失ったので、わずか九歳ながら赤穂五万石を襲封し、1680(延宝八)年には、祖父と同じ官名、従五位下内匠頭に任ぜられた。
1681(天和元)年、江戸城神田橋門番次で御屋敷近所御火消役(大名火消)となる。 翌年には朝鮮通信使の三島宿での饗応役となり高家吉良義央の指南を受ける。 さらに翌年、勅使饗応役を仰せつかり再度義央の指南を受ける。饗応役などの役目を長矩は、しっかり果たした。 その後、初めて自領赤穂藩へ帰国。そして、浅野本家の分家筋にあたる、三次浅野家の阿久里姫と結婚。長矩と阿久里姫の間には実子はなかったが、この夫婦の仲はとてもよかったといわれる。
1701(元禄十四)年、再び勅使饗応役に任じられる。 そしてこの時の指南役も、吉良義央であった。 その最中の3月14日に江戸城内大廊下で義央を斬り付け負傷させ、田村建顕邸に預けられ即日切腹。 長矩が義央を斬り付けた理由として、よく言われるのが、賄賂を送らなかったために、義央がことごとく長矩につらくあたり、それを遺恨に思った長矩が義央に刃傷に及んだという説である。 しかし、本当のところはよくわかっていない。 この当時武家の不文律に喧嘩両成敗がある。徳川幕府もその方針をとっている。 しかし、長矩と義央のこのいさかいに対して幕府の処置は長矩は切腹、家は断絶。 義央はお咎めなし。こ れが理由となって、後に赤穂浪士47士の討ち入りが決行されるのである。
長矩は、幼少から文武の道に励み、十八歳の時に、弟の大学とともに山鹿素行の門に入り兵学の勉強に努めていた。 書は肥後の北島雪山に学び、絵は狩野派に学び、雅号を「梅谷」と称した。茶は石州流をたしなみ、和歌にも堪能であった。
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