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【生没年】1519年(永正16年)〜1560年(永禄3年)5月19日
【名】幼名は芳菊丸、通称は五郎、梅岳承芳とも
【官位】従四位下 治部大輔、上総介、三河守
今川氏親の五男として駿河・駿府城に生まれる。 母は正室の寿桂尼(中御門宣胤の娘)。 幼くして僧籍に入り梅岳承芳と名乗って善徳寺の喝食となる。 その際教育係で終生の師となる太原崇孚(雪斎)の熱い薫陶を受ける。天文五年(1536年)に当主であった長男氏輝が急死し、また同じ日同じ場所で次男の彦五郎も死亡してしまった。 そのため正室の子である承芳と三男で妾腹の玄広恵探との間に「花倉の乱」と呼ばれるお家騒動が勃発した。結果敗北した恵探は自刃、承芳が家督を継いて今川家九代当主となった。
この時室町将軍足利義晴の偏諱を受け以後「今川義元」と名乗るようになる。
家督を継いだ義元は、翌年長期間抗争を続けている甲斐の武田家と和睦するも代わりに後北条家との関係が悪化、北条氏綱が駿河へ侵攻するも武田家などの助力もあって天文14年(1545年)には伊豆に押し返すことに成功。 更に天文23年(1554年)太原雪斎の奔走で武田晴信・北条氏康との間に駿甲相三国同盟を成立させる。尚、名高い「善徳寺の会盟」は後世の創作らしい。 三河方面では雪斎が第二次小豆坂合戦で三河を狙う織田信秀を撃破し、奪われていた三河松平家の人質竹千代をも奪回、同国をほぼ手中に収めた。 このように雪斎は義元にとって良き補佐役であった。 最大版図は駿河・遠江・三河計百万石にも達する。
弘治元年(1555年)に雪斎が没した後も今川家は順調に尾張への侵食を進め、永禄2年(1560年)上洛の軍を起こしたとされているが、最近の研究では単なる尾張攻略だとする説が有力である。 とまれ、義元は二万五千の大軍を率いて尾張へ向かった。 しかし5月19日、尾張桶狭間にて豪雨を衝いた織田信長の乾坤一擲の奇襲を受け戦死。 享年42歳。 この時、首を討とうとする毛利新助の指を喰い千切ったと言う逸話が残されている。 合戦後家臣の岡部真幸が遺骸を奉じて駿河へ戻り、天沢寺に葬られた。 後明治の世になって臨斎寺に改葬されている。 法名天沢寺殿秀峰哲公大居士。
北条・織田といった強豪と闘いつつも、一方で内政でも抜かりのない政策を次々に実行している。 父氏親が定めた「今川仮名目録」を大幅追加し、寄親寄子制による軍団の組織化、関所の撤廃や検地、楽市楽座など断行して国力を充実させ、足利将軍家が定めた特権の否定などもやってのけている。 また、僧籍にあった一時期を京都で過ごしたり、多くの公家が駿河へ下向して京文化が駿河に持ち込まれたせいもあってか、義元は公家文化に傾倒し和歌や蹴鞠を好み平生は置き眉やお歯黒をしていた。 乗馬は苦手で移動には専ら輿を使用していたという。 「海道一の弓取り」の異名は余りにも有名。
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