■ RJW歴史人物辞典 【3】

 諸葛誕 【しょかつたん】
  【生没年】206年〜258年
  【字】公休
  【官位】魏:征東大将軍  呉:驃騎将軍


 瑯邪郡陽都県の出身。 彼は若くして才人であり、名を知られていた。 魏に仕官してからは順調に昇進を重ね、尚書郎から御史中丞・尚書に就いていた。 祖先ゆずりの剛直さゆえに、例えば人物推挙に関しては贔屓なく公平に行ったことから、諸葛誕の周りの信頼は高く、その後も着実に出世を重ね御史中丞という位になった。 彼はその気性から朝廷でも評判はよかったが、出世頭の諸葛誕をこころよく思わない輩によって中傷を受け、その讒言により明帝(曹叡)から官職を剥奪される不遇に陥った。

 明帝が没した後、親友の夏侯玄らが現職復帰を願い出てくれたので、揚州刺史・昭武将軍を歴任することになった。 このころ、急速に政権を取り込んでいく司馬一族の専横に対して王凌が反乱を企んだ。 このとき諸葛誕は司馬懿に鎮東将軍に任命され、東征に軍を起こした。 このとき諸葛誕は軍事においても才能を発揮し、見事に鎮圧したので山陽亭侯を拝命する。 しかし、この王凌の反乱が導火線となり、いままで司馬一族の専横を不満に思っていた者たちがあちこちで内乱を起こし始めた。 友人の夏侯玄の反乱(嘉平六年)、続いて毋丘倹・文欽の反乱がそれである。 このとき諸葛誕も反乱軍からの使者により参軍を促されたが、それを非道であるとして使者を切り捨てた。 反乱の鎮圧に向かった諸葛誕は豫州の兵を指揮し、寿春に軍を向けてケ艾、胡遵たちと獅子奮迅の働きをみせ、反乱軍を敗走させた。 さらに、淮南の反乱に乗じて攻めてきた呉の援軍をも撃破したのである。 このとき呉の留賛を討ち取り、戦果を上げて寿春に到着した諸葛誕は高平侯に封ぜられ、征東大将軍・儀同三司に任命された。

 諸葛誕は夏侯玄をはじめとする自分の友人たちがことごとく粛清されていくのを見て、次こそは自分ではないかと疑い始めた。 そこで諸葛誕は保身のため、私財をなげうって民衆に恩恵を施し、諸葛公のために命を賭けるほどの遊侠の私兵数千人を遇した。 しかし、これは反乱を企んでいると讒言される絶好の口実以外のなにものでもなかった。 保身の策が裏目に出たのである。 256年(甘露元年)、司馬師が亡くなり、呉軍が淮南に攻撃を仕掛けてきたとき、魏は諸葛誕に援軍を送らなかったし、諸葛誕も魏の朝廷の召喚命令に身の危険を感じて上京しなかった。 諸葛誕は遂に寿春において決起に踏み切った。

 寿春を本拠とし、自らの指揮で私兵を用いて淮南付近の4万の屯田兵を傘下に治め、兵糧を略奪すると、揚州に兵を向け揚州刺史の楽[糸林]を討ち取りその兵も吸収した。 一年分はある莫大な食料を運び込んで寿春城で篭城策をとった。 合計十万以上の大兵力である。 さらに部下の呉鋼に末の息子諸葛[青見](しょかつせい)を人質として呉に派遣し、援軍を請うて篭城策をとることにした。 呉もこれに応じて3万を寿春城に送り込んだ。これに対して魏の司馬昭の対応は迅速であった。 司馬昭は二十六万もの大軍を率いて、まず寿春城を王基らに兵で二重に囲み、呉の援軍が到着できないよう牽制させる備えを陣取り、長期戦の構えを見せた。 そして258年、食糧が尽きた諸葛誕軍は兵士の離脱や部下との確執が目立ち、ついに内部崩壊に至った。 押し寄せる魏軍に抵抗する力もなく、諸葛誕は魏の胡奮に斬られ、寿春城は陥落した。 

 諸葛誕の首は洛陽に送られ、三族は責任をとらされ誅殺された。 このとき彼の麾下であった兵士百人は「諸葛公は我らと共にあり。 諸葛公のために死ぬなら悔いはない。」と見事に言ってのけた後処刑された。 部下が殉死を選ぶくらいに彼は人心をつかんでいたといえる。 諸葛氏といえば蜀に諸葛亮、呉に諸葛瑾、そして魏に諸葛誕を世に送り出した一族である。 後世の人々はこの3人を「蜀はその龍を得、呉はその虎を得、魏はその狗(いぬ)を得たり」と評したといわれている。