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【生没年】1127年(大治2年)〜1192年(建久3年)
【御名】雅仁
【実母】権大納言藤原公実の娘、待賢門院璋子。
鳥羽上皇第四皇子。 久寿二年(1155)近衛天皇の死去に伴い践祚するも、同母兄の崇徳上皇はこれを不満として保元の乱を起こす。 天皇はこの乱を平清盛・源義朝らの武力によって制圧し、その後信西を重用して政治を行った。 後白河天皇は即位してからわずか三年ほどで二条天皇に譲位し、院政をしいたが、二条天皇・六条天皇の時代は後白河上皇に対立する勢力が強く、上皇は平清盛と計って二条天皇の弟で寵愛する建春門院滋子の子、高倉天皇を即位させる。 この結果、上皇は政治の実権を握るようになった。出家は嘉応元年(1169)のことである。
やがて平氏の勢力が強まってくるようになると法皇は平氏を疎むようになり、鹿ヶ谷で平氏打倒の謀議をこらし清盛との関係も悪化、ついには清盛によって鳥羽殿に幽閉、院政を停止される。 高倉上皇、清盛が没すると法皇は院政を再開し、頼朝ら源氏勢力と結んで平氏を追討させる。 また入洛した木曽義仲を退けようとすると、義仲は逆に法皇を捕らえ、公卿を解官したため、次いで京都に入った義経・範頼らに追討させた。 続いて平氏を壇ノ浦に滅ぼした義経は兄頼朝との対立を深め、法皇は義経の要請を受けて頼朝追討の院宣を出す。 勢力で勝る頼朝は逆に義経追討のために法皇に守護・地頭の設置を承認させ、また九条兼実と結びついて法皇の勢力を抑えようとしたが、義経、続いて奥州の藤原泰衡を滅ぼすと再び法皇と鎌倉との関係は円滑に保たれた。 5代にわたり、院政を行い権謀術数を駆使する様は、頼朝いわく「日本一の大天狗」の名にふさわしい。
後白河法皇の今様好きは有名であるが、他にも様々な芸能を好んだ。 管弦や読経(声明)、舞や猿楽などである。 こうした行動は九条兼実や信西に批判的に指摘されているが、『梁塵秘抄』のような本が生まれたのも今様好きが高じてこそだった。
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