■ RJW歴史人物辞典 【1】

 蒲生氏郷 【がもう うじさと】
  【生没年】1556年(弘治2年)〜1595年(文録4年)
  【名】忠三郎、賦秀、教秀とも。 洗礼名はレオン(レオ、レアンとも)
  【官位】正四位下 左近衛少将


 佐々木六角家家臣、近江中野(日野)城主蒲生賢秀の嫡男として生まれる。 幼名を鶴千代という。 幼い頃から非凡な才を見せており、連歌師里村紹巴にもその聡明振りを称賛された。 織田信長の上洛により主家の六角家が滅亡すると父賢秀の降伏により岐阜へ信長の人質として送られるが、その才を認められて人質でありながらも近習として仕え、信長の女冬姫を娶り、中野城の父の元へ戻されると柴田勝家の与力となって畿内各地の戦に従軍した。

 本能寺の変では明智光秀の誘いを断わって安土より落ち延びて来た父と信長の家族を保護して中野城に篭城して奮戦し、本能寺後の勝家と羽柴秀吉の対立の際には秀吉方について伊勢の滝川勢を攻めて軍功を上げた。 その後は秀吉の家臣として小牧長久手の戦いに従軍、殿軍を務めてその功により伊勢松ヶ島(のちに松阪に移る)12万石を与えられ、紀伊、九州、小田原と歴戦してその功により会津黒川42万石を与えらる。 さらに大崎、葛西の一揆、九戸の乱鎮圧に奔走し、92万石に加増され天下に名だたる大大名となるも、1592年朝鮮出兵に際して名護屋に参陣した時に下血して帰国となり、1595年伏見にて40歳で没した。 あまりにも早過ぎる死に後世には毒殺説さえも流れた。

 軍規に非常に厳しく軍規を破る者には容赦無かったが、功のある者には恩賞は気前良く与え、与える録が無い時は屋敷に招いて自ら風呂を沸かして労うなどしたため家臣の信頼は非常に厚かった。 戦場に置いては常に先陣にあって自ら槍を取って敵陣に突激し味方を多いに励まして戦い、その将兵一体の戦振りは「無双」と称えられた。 文芸にも秀でて茶道においては利休七哲筆頭として名を連ね、和歌も名歌と誉れ高いものが多い。 信仰では高山右近の薦めでキリシタンとなり、ローマやイスパニア(スペイン)と親交を結んで小銃、ロザリオ、聖書の他、軍船の設計図等も手に入れ高山右近が追放されると宣教師にキリシタンの保護を約束している。 町作りにおいては楽市楽座を設けて商人育成に努め、現在の三重県松坂市、福島県会津若松市の基礎を築いたと言われている。