<<< マキャベリスト・宇喜多直家の生涯! >>>


小姓 > 宇喜多直家殿、またお越し下さいませ。
宇喜多直家 > お疲れ様でした
大久保利通 > ありがとうございました^^
姜維伯約 > ありがとう御座いました
大久保利通 > 特にないです、説明がわかりやすかったので^^<質問
清水宗治 > 皆様有難うございました。
今川氏真 > ありがとうございました。
張良子房 > 今日は本当にありがとうございました。
小姓 > 小野妹子殿、またお越し下さいませ。
清水宗治 > これにてお開きです(^_^)/
張良子房 > では私も落ちます。
清水宗治 > 早ければ来週、再来週にもやらせていただこうかと思っております。
清水宗治 > 今回の歴史会は自分が話しすぎたようで反省しております。次回は気をつけたいと思います。
小野妹子 > 特にございません。ありがとうございました
芹沢光幹 > では、次回も楽しみにしております>有難う御座いました、清水殿^^
芹沢光幹 > ここまでの話で宇喜田直家のイメージが少し変わりました^^>面白かったです
姜維伯約 > 了解です
張良子房 > 特にございません。説明がうまかったので^^
清水宗治 > ちょっと、戸惑い気味(^_^;)
姜維伯約 > 特に無いですね<質問
清水宗治 > 質問は承りますm−−m
清水宗治 > 次の戦いを話すと長いので、この変で今日はお開きにしようかと思いますがどうでしょうか?
清水宗治 > と、ここまで語ってきましたが、宇喜多直家の生涯はここ乙子城からはじまるわけです。
清水宗治 > これが宇喜多三老といわれる家臣団でこれから活躍していきます。
清水宗治 > 長船貞親・・・同様に乙子城から宇喜多直家に仕えている重臣で、重要な城につねに任命されている。
清水宗治 > 岡利勝・・・同様、乙子城から宇喜多直家に仕えている重臣で、出陣は40回を超えたといわれる。
清水宗治 > 戸川秀安・・・乙子城から宇喜多直家に仕えている重臣で、忠義並ぶなしといわれて秀吉の秀の字をもらっています。
清水宗治 > ここで1つ、宇喜多直家の家臣を紹介します。
姜維伯約 > 成る程
清水宗治 > 君臣一体の精神がこの経験によってできたのは事実だと思いますよ。
清水宗治 > 武人・宇喜多直家としては城主になって出世をしたいと望んだと私は思いますね
姜維伯約 > 何故、そのような地をわざわざ希望したのでしょうか?
清水宗治 > 1ヵ月に5回の絶食はあたりまえで、敵の畑から盗むなど生きる為なら何でもしています(^_^;)
清水宗治 > そのため、宇喜多直家をはじめとして重臣までもが畑を耕して、
清水宗治 > こうして乙子城へ行った宇喜多直家でしたが、家臣は能家時代からの家臣がたくさん来た為収容しきれなくなります。
清水宗治 > 浦上宗景は自らがいきたいと頼む宇喜多直家を見てOKを出したのだと思います。
清水宗治 > この乙子というのは海賊が多くて、しかも敵が多くて誰も行きたがらない土地だった為、
清水宗治 > そして宇喜多直家は乙子という場所を褒美としてもらいます。
清水宗治 > 1544年に宇喜多直家は14歳で初陣を飾ると共に、宇喜多八郎から宇喜多直家と元服します。
清水宗治 > この母が説得したようです。
清水宗治 > そして1543年に宇喜多直家の母が浦上宗景(宇喜多家の昔の主家)の内室に仕えてようやく呼び出されます。
清水宗治 > 1534年に砥石城が落ちてから1543年までは阿部善定の元に宇喜多直家はいることになります。
清水宗治 > さてここでもう1回質問があればどうぞ。(これから結構、時間がたちますので。)
清水宗治 > それから6年がたち、宇喜多興家はこの地で病死しています…。
清水宗治 > それが後の宇喜多春家・宇喜多忠家となり宇喜多直家の頼れる重臣となるわけです。
清水宗治 > ここで再起をはかる…こともなく、宇喜多興家は阿部善定のもとで息子を産みます。
清水宗治 > その後、宇喜多家との縁がある豪農の阿部善定に身を寄せます。
清水宗治 > この時に、宇喜多興家は自分が城主でもあるにも関わらず息子の八郎(後の宇喜多直家)と共に落ち延びます。
小姓 > 今川氏真殿、ようこそお越し下されました。
清水宗治 > このことは浦上宗景(宇喜多能家と島村豊後守の主家)にも連絡をとっていたとおもわれます。(忠臣だったのに、あぁ、非情!
清水宗治 > こうして砥石城は島村豊後守が陥落させたわけです。
清水宗治 > 不意をつかれた宇喜多能家は病にもかかっていたため奮戦もできず自刃します。
清水宗治 > そして夜に宇喜多能家がいる砥石城を攻めます。
清水宗治 > この島村豊後守は宇喜多能家を除いて自分が浦上家の権威を独占しようとしたわけです。
清水宗治 > 資料に残っている上ではそうなります。<興家>小野殿。
小野妹子 > 遅れ馳せながら質問です。興家は、能家の長男になるんですか?
清水宗治 > 攻撃したのは島村豊後守で島村氏も浦上家の股肱の家臣でしたが、宇喜多家の勢力が伸びると日陰にいました。
清水宗治 > 時代は移り1534年、その砥石城が攻撃されます。
清水宗治 > 貢献→後見
清水宗治 > 宇喜多能家は砥石城に隠居しましたが、息子の宇喜多興家には無能(実績なし)だったため貢献をしてます。
張良子房 > 特にございません。
清水宗治 > それでは第二部、宇喜多直家の登場編です。
小野妹子 > 今、過去ログを拝見します。先にお進めくださいませ
芹沢光幹 > 過去を拝見しましたが、私も質問はありません>勉強になりますねぇ
大久保利通 > 私も特にないです。<質問
真田幸隆 > 質問は特にないです。
宇喜多直家 > いえ、ありませんよ<質問
姜維伯約 > 特に無いですね<質問
清水宗治 > 何かありますかね?第二部は宇喜多直家の登場です。
清水宗治 > とこの後かなりの変事がおこるので質問にしますね。
清水宗治 > こうして家督は宇喜多興家(宇喜多直家の父)がとったわけですが、宇喜多家にとっては不安でした。
真田幸隆 > ふむふむ
清水宗治 > しかし無情にも大活躍をします。この後、宇喜多能家は隠居します。
清水宗治 > そんな事もあって宇喜多能家は決死の覚悟で自ら敵中に駆け込みます。
清水宗治 > 長男は武将としての覇気がなく、跡継ぎは次男とおもっていたときの死だったのです。
清水宗治 > それは自分の子(次男)の死です。赤松勢との戦いで先鋒の自分の子が討死したのです。
清水宗治 > こうして大活躍を次々とおさめていったわけですが、宇喜多能家にも災難がきます…。
清水宗治 > この騒ぎに乗じて突撃をしてこの包囲を打開します。主家の絶体絶命を助けたのでした。
清水宗治 > そこで宇喜多能家は60余人の兵を農民に変装させて民家に火を放つよう命令したのです。
清水宗治 > そこで宇喜多能家は戦ったわけですが、兵糧が断たれて困窮してしまいます。
清水宗治 > 浦上家謀反によって怒った赤松義村は早速、浦上家の城を攻め始めます。
清水宗治 > 少しですが宇喜多能家の逸話を書きますね^^
清水宗治 > そうですね。赤松義村です。>真田殿。
真田幸隆 > 赤松義村でしたっけ?<浦上下克上後の赤松家当主
清水宗治 > そこで活躍したのが宇喜多能家で、浦上家には宇喜多能家がありと言われていました。
清水宗治 > 先程いいましたが、赤松家に下克上をした浦上家ではありましたが、力はまだ赤松家はかなりあったわけなのです。
清水宗治 > 宇喜多直家のイメージからして忠臣とは思えませんが、宇喜多能家は浦上家に尽くした忠臣だったのです。
清水宗治 > 宇喜多能家(宇喜多直家の祖父)は人々から温厚な性格で篤実な性格で、武勇も名がある名将だと言われていました。
宇喜多直家 > ふむふむ。
清水宗治 > と時代背景を見てきましたが、宇喜多家から外れてるという声がありそうなので宇喜多家に話を戻しますね。
清水宗治 > とも言われていたそうですね。
清水宗治 > しかしこの守護になった背景には浦上則宗がいてその後ろには宇喜多能家がいるからだあ<赤松政則>宇喜多殿。
宇喜多直家 > 播磨・備前・美作の守護ですからねぇ<赤松政則
清水宗治 > しかし時代は下克上です。赤松家より浦上家の方が力が強くなっていくのです・・・。
清水宗治 > 地図で見るとその大きさがわかりますよね。
清水宗治 > 宇喜多能家は浦上則宗に仕えていて、その浦上則宗は赤松政則に仕えています。
清水宗治 > 真田殿が入って下さったように当時は室町期の大名がいたわけですが、
清水宗治 > この宇喜多能家は宇喜多直家が尊敬していたといいます。
清水宗治 > 見つけるのに時間がかかるというのも分かりますね。宇喜多家では久家からその子の宇喜多能家(宇喜多直家の祖父)に家督はうつっています。
真田幸隆 > そうですね。このときはまだ、山名、赤松、細川といった室町前期の有力大名がいた時代ですから
姜維伯約 > ですね、見付けるのに暫くかかりましたから(笑)<備前の小さい豪族
宇喜多直家 > ほぅ…
清水宗治 > この頃の宇喜多家は備前の小さい豪族に過ぎなかったのです。
清水宗治 > 宇喜多久家と書いてあるのが宇喜多直家の曾祖父です。
清水宗治 > 失礼・Web Site Address!!
清水宗治 > ttp://homepage2.nifty.com/OTIBO_PAGE/rekishi/tizu/ezu_1491.htm
清水宗治 > ここで宇喜多家とはどんなところにいたのかという人もいると思いますので、素晴らしいサイト様の地図を参照します。
清水宗治 > ということで時代をすすめて1469年・初めて宇喜多の文字が資料にでてきた頃に進めます。
宇喜多直家 > ですね<不明
清水宗治 > 因みに宇喜多という名字についてもどこからとったのか全く持って不明です(-_-;)
清水宗治 > その三宅氏の分家が宇喜多氏といったところと解釈してください。>皆様。
清水宗治 > そうですね^^>真田殿。
姜維伯約 > まぁ、それほど怪しいと言ったところでしょうか<説が10個以上
清水宗治 > その児島高徳もはっきりしませんが、どおりもこの人が三宅を姓としていたようです。
張良子房 > そうでしょうね。
真田幸隆 > 児島というと今、瀬戸大橋がかかっている本州側の方のあたりですね
清水宗治 > ただ、壱や弐が正しいのではないかと思われています。
清水宗治 > 10個はとりあえずこえるとおもいます。ただ確証がなくてどれも正しいといえずじまい。>子房殿。
清水宗治 > ただすべての説が児島高徳が祖としてでてくるんです。
張良子房 > 10個もですか!
清水宗治 > と説だけで10個をこえるというほど資料がない家です。
真田幸隆 > ふむふむ
清水宗治 > 参・頼仁親王説…承久の乱後に児島に移ったという説。
清水宗治 > 弐・天日槍説…気化人である新羅の王の天日槍が児島の国を賜った説。
清水宗治 > 壱・百済王子説…元百済の王子が備前の児玉に着いたという説。
清水宗治 > しかし宇喜多家は謎が多くてはっきりしてません。そこで諸説を軽く流しますね。
宇喜多直家 > 宇喜多直家のイメージが変わるか…ですね。楽しみ^^
清水宗治 > それでは歴史会の幕開けですが、まずは取り合えず宇喜多家とはどんな家柄なのかということを説明します。
姜維伯約 > 楽しみですねぇ
真田幸隆 > 見本といった方がいいでしょうか
清水宗治 > 今、おもったことが「あ、意外に違うんだ」と思えれば成功ととらえてやってください。
真田幸隆 > 松永久秀、大浦為信と並ぶ下克上の
清水宗治 > なるほど。今のイメージがこの歴史会でどれだけ変わるかが私の役目です^^
宇喜多直家 > 意外にまっすぐというか…祖父の敵を討ち、奥さんや子供を愛した一面が印象に強いかなぁと。
姜維伯約 > 私は野心家と言うイメージですね
張良子房 > 策士・・・とでも言いましょうか
真田幸隆 > 私は戦国の時代を上手く渡り歩いた策士の一人ですね。
清水宗治 > 私の第一イメージ(今とは違います)は極悪非道で厳しい人物と捉えていました。
清水宗治 > さて、まず始まる前に宇喜多直家のイメージをお聞かせいただけますかね?>皆様
宇喜多直家 > よろしくお願いします^^
張良子房 > お願いします。
真田幸隆 > さて、清水殿のお手並み拝見といきますかね
姜維伯約 > 宜しくお願いします
清水宗治 > 10時頃に合流される方が2、3名ほどかと(多分。>宇喜多殿。
真田幸隆 > こんばんは
張良子房 > そうだったんですか!(汗
清水宗治 > それではマキャベリスト・宇喜多直家の一生をはじめさせて頂きます。
宇喜多直家 > ←管理人です、念の為
宇喜多直家 > 4人ですかね?<集まり
清水宗治 > 集まり次第開始と致します。
宇喜多直家 > 久々の歴史会。楽しみです^^
姜維伯約 > 今晩は^^
清水宗治 > こんばんわ。
張良子房 > お願いします
宇喜多直家 > こんばんは。
吉川広家 > 私の記憶では栄西の自筆書状発見以来のどんちゃん騒ぎのように思われます(笑)
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