<<< 歴史会『石田三成を弁護する〜後編』 >>>
姜維伯約 > ではこれにてお開きとします。皆様、長時間お疲れ様でした。^^
額田王 > 今日の会で、戦下手とは違うという印象を持ちました
李淵淑徳 > ただ、当時は武者働きが名誉でしたからねえ^^;
大平清九郎 > 自分も戦下手な人物とは言えないと思いますねぇ
李淵淑徳 > 私は戦略家としては三成は十分有能だと思いました
保科正之 > 某は、三成の、通説に伝えられる諸々の悪行・愚行については事実無根の冤罪・もしくは証拠不十分の不起訴が適当と思われ、彼自身の実像は通説よりもより有能な人物であったと思います。(一応、弁論風に)
姜維伯約 > 最後に、今回の歴史会のテーマ「石田三成は本当に戦下手か?」と言う所は、皆様どう思われますか?
小姓 > 虞翻仲翔殿、ようこそお越し下されました。
仙桃院 > ありがとうございました。
額田王 > はい。今日は楽しかったです。有難うございました&お疲れ様でした^^
大平清九郎 > ありがとうございましたぁ
李淵淑徳 > ありがとうございました^^
額田王 > だからこそ、後世に悪いうわさを…?
保科正之 > 宜しゅうございます。本日はどうもありがとうございます&お疲れ様でした。
姜維伯約 > そうですねぇ<徳川家康政権の足元を揺さぶっている
姜維伯約 > では、ここで歴史会は終了と言う事になりますが、宜しいでしょうか?
保科正之 > ふむ…三成の諸将勧誘策は、ある意味では絶対的、と思われた徳川家康政権の足元を揺さぶってますからねぇ…
姜維伯約 > 関ヶ原の合戦の細かい経緯は歴史会「決戦関ヶ原」(←Web Site Address!!)で取り上げられているので、今回は省略させていただきます
姜維伯約 > 実力・身分からいえば、当時第一の権力者徳川家康と比べるべくもなかった石田三成が、敗れたとはいえ、一時は互角までの勝負にもっていけたのは、現代に通じる彼の組織運営力があると思います
姜維伯約 > 家康自身は、自身に戦いを挑む者がいるとしても、それは三成ほか数人の小大名だけであって、あのような天下を二分する戦いは予想していなかったことが、当時の書簡から窺えるからです
姜維伯約 > 史書の多くは、これは家康が筋書きを書き、それに三成は踊らされたのだとしていますが、それは結果から物事を見てるとこが多分にあると思います
姜維伯約 > 三成は、周知のとおり最後に「関ヶ原」という大決戦を挑むこととなります
姜維伯約 > ついでに、歴史掲示板の「石田三成の過去と最期」でもこの事は取り上げられているので、一度見てみてください
大平清九郎 > 了解です
額田王 > 了解です<朝鮮出兵
仙桃院 > はい
保科正之 > 了解です。 >朝鮮出兵
李淵淑徳 > はい
姜維伯約 > といった所で第二部「朝鮮出兵の際の活躍」に関してはよろしいでしょうか?
姜維伯約 > ちなみに、碧蹄館の戦いの後、戦線は一時膠着状態となり、三成はこの機に講和交渉に入りますが、講和は、清正・秀吉らとの衝突により実らず、さらに戦いが続きました・・
保科正之 > ふむ、普通は名将扱いですね。それだけの働きがあれば。
姜維伯約 > しかし、もし三成がいなければ、碧蹄館に至る前に日本側は個別撃破され、更に容易ならない事態となったことでしょう
額田王 > 成る程。。
保科正之 > うむぅ…占領各地で民衆蜂起が起きて、前線のみならず補給困難な状態にあったとも言いますしね…。
姜維伯約 > この碧蹄館の戦いでは、戦場で巧緻な戦術を見せた小早川隆景、立花宗茂らの活躍のみが後世に喧伝されて、三成の活躍はほとんど無視されています・・^^;
姜維伯約 > 三成の戦略は当たり、自軍の退却により時間を稼ぎ、漢城北方に軍を集結できた日本側は、急追してきた明軍を碧蹄館の地で迎え撃ち、これに大打撃を与える事が出来ました
姜維伯約 > 三成は隆景に対し、補給の困難さ・兵糧の現在量・彼我の兵力差をとき、開城での長期戦を不可と説得して退却させ、漸く反撃の為に軍を集結させました
姜維伯約 > ですが大河の向こうにあるこの開城は、補給路を絶たれると脆い面を持っていました
姜維伯約 > この開城を撤兵することは、今の北朝鮮にあたる部分を無血で放棄することになりますから、隆景が反対したのも理由の無いことではありません
李淵淑徳 > おまけに開城がそこまでの戦略要地なら、隆景の反対も分からないでもない^^;
保科正之 > まぁ、篭城に必要な水を瓶ごと叩き割った人もいますから。(笑 砂食らう発言はまだ正常な方かと。
姜維伯約 > ただ、日本側はかなり戦線を広げていたので、明軍四万が、各個撃破に動くと、かなり日本側にとって厳しかったと思います
李淵淑徳 > 10万が完全に分散してたの分かりますね<4万で大軍
保科正之 > 戦術的には大博打ですね。戦線後退の分、士気が下がって総崩れとなるか、起死回生、明兵諸共朝鮮勢を打ち破り、勢いに乗って明へ迫るか… >諸城破棄
大平清九郎 > 意地なんですかねぇ
姜維伯約 > かなり後の話になりますが、朝鮮戦争の時、開城は北朝鮮軍の第一目標となりました・・
李淵淑徳 > それだと、明の動員兵力はやっぱ少ないですね<10万
姜維伯約 > 補足有り難う御座います>保科殿
額田王 > 砂…(苦笑
姜維伯約 > 特に、開城という要衝の守備についていた小早川隆景は、撤兵を強硬に拒否します
保科正之 > 徳川家康に、秀吉が語った言葉として「三十万の兵で自ら渡海する」というのが資料にも残っていますね。
姜維伯約 > 彼らは、退去に容易には同意しませんでした
姜維伯約 > 加藤光泰は「米が無くて戦えぬというなら、砂を食ってやる。」と嘯き・・
保科正之 > …う〜ん、かなりの数ではあったようですが、島津義弘らが8000の兵で十倍相当の敵と戦っている例があることから、日本軍も多くて10万ほどだったのではないかと。 >兵力
姜維伯約 > 小早川隆景には「明の多勢に、奉行は臆病風にふかれたのか!」と罵られ・・
姜維伯約 > しかし、諸将に自分の城を放棄させるのは容易ではなく
姜維伯約 > 三成はこの時、前線にある拠点のうち補給に不利な所を全て放棄し、漢城周辺に大軍を終結させて、明を迎え撃つ戦略をたてたのです
李淵淑徳 > 4万てのは余り多くないですね・・・分散してたところをやられたんだろうな・・・
姜維伯約 > その危機を救ったのが、三成の戦略でした
姜維伯約 > かなりの大軍だったと思いますが、細かい所はよくわかりません^^;<日本側の兵力
姜維伯約 > 平壌の小西軍は一蹴され、鳳山の大友吉統は逃亡、日本側の前線は総崩れになります
李淵淑徳 > 日本側の兵力はどれくらいだったんですか?
額田王 > 成る程…
保科正之 > …大日本帝国も、同じような理由で凋落しているのは歴史の皮肉ですな… >補給・民政重視観の欠落
姜維伯約 > 明けて文禄二年一月、三成の予言が的中し、朝鮮の役最初の危機が日本側を訪れます。凍結した鴨緑江を越え、明の援軍四万が到着したのです。
姜維伯約 > 後に三成と共に講和交渉の先頭に立つ小西行長ですら、この時は主戦論を述べ、三成は孤立し、日本側の戦線はバラバラに延びたままでした・・
李淵淑徳 > 戦略眼は確かですね<補給重視
姜維伯約 > ところが、緒戦の勝利に気を良くしている諸将には受け入れられ無く・・
姜維伯約 > 三成は諸将を漢城に招集し、戦線の縮小と民政の安定を説きます。
姜維伯約 > これは、朝鮮の役のその後を言い当てた物でした
姜維伯約 > その書状の中で三成は日本側が無計画に戦線を拡大しすぎていることを憂慮し、このままでは補給が続かなくなり、朝鮮の地に日本人はいなくなってしまうだろうと言い切っています
姜維伯約 > この渡海直後、三成が書いた興味深い書状が残っています。
姜維伯約 > 小西行長が平壌を落とし、加藤清正が明国境まで進み、年内には「唐入り」が実現するかと思われていた頃です
姜維伯約 > その朝鮮の地に、三成が在陣総奉行として渡ったのは、開戦から三ヵ月後の天正二十年七月、まだ日本側が緒戦の勝利に沸き立っていた頃でした
姜維伯約 > やがて異民族間戦争の泥沼に落ち込み、朝鮮の役末期には、朝鮮南岸の城におし詰められた状態になります
姜維伯約 > 戦国の世を戦い抜き、装備に優れた日本側は緒戦こそ快調に勝ち進みますが・・
姜維伯約 > 朝鮮の役は、日本側にとっても朝鮮側にとっても、辛く長い戦いでした
姜維伯約 > ここでは、知られざる名戦略家・三成の姿を、その朝鮮の役での活動から追っていきたいと思います
姜維伯約 > では「朝鮮出兵の際の活躍」に進めたいと思います
仙桃院 > 了解。
額田王 > 判りました^^<忍城
李淵淑徳 > 了解です
大平清九郎 > 了解です
保科正之 > 了解です。 >忍城
姜維伯約 > ではこの辺で「忍城攻め」に関してはいいでしょうか?
保科正之 > 寄せ手は大軍勢、守勢は少兵・城は要害堅固の地にあるけれど小城…慢心の心があったのかもしれません… >戦術判断が悪い
姜維伯約 > この事からも、「忍城攻め」は石田三成が決して「戦下手」と判断される要素ではないということが解ります
姜維伯約 > 又、忍城を三成の下で共に攻めた武将は、大谷吉継、長束正家、佐竹義宣、多賀谷重経、真田昌幸らですが、これらの諸将は、その後、関ヶ原の戦いでほとんどが三成方、または三成寄りの行動をとっているのです・・
李淵淑徳 > ただ、方法が悪かったですね^^;戦術判断が悪いと言うか、中期的な戦略ミスというか・・・^^;
保科正之 > 砦→堤防 (謎な変換ミス)
保科正之 > 戦国史上最大規模の砦・愚戦・失策…(苦笑
姜維伯約 > そうですねぇ^^;<戦略的には間違っていない
小姓 > 内藤虎次郎殿、またお越し下さいませ。
内藤虎次郎 > でわ〜
内藤虎次郎 > 私も、失礼します。
保科正之 > …そういえば、伊達政宗とかもこの戦に参加し(出向い)てるんでしたね…(汗
姜維伯約 > ちなみに、忍城攻めでの堤防の総延長は約二十八キロメートル、これは、備中高松城水攻めの4倍以上の長さであり、忍城攻めは、水攻めとしては戦国合戦史上最大規模であるそうです
李淵淑徳 > 圧倒的な力見せ付けて戦意喪失させる・・・戦略的には判断間違ってないですが・・・(苦笑)
姜維伯約 > 現場を見ない上司の無理な命令に、必死で応える三成・・
保科正之 > …戦の途中にも、遊び的な心を忘れないのは秀吉らしいと言えば秀吉らしいですが…(汗 >見物
姜維伯約 > つまり、秀吉にとって忍城攻めは、ただ城を落とすことだけでなく、水攻めという秀吉の富をもってしか成しえない城攻めを行ない、そのやり方を新参諸将に見せつけることが大きな目的であった・・と考えられます
姜維伯約 > 又、秀吉自身が小田原攻めでも、敢えて石垣山に一夜城を築くという演出を行っていますし・・
保科正之 > そのうち窓際(五奉行の職務権限の実質的消失)を経てリストラ(五奉行降格)…現代の、悲劇の鏡ですな。(汗
李淵淑徳 > 確かに度肝抜く戦術ですね(苦笑)<水攻め
姜維伯約 > 秀吉は、書状の中で、諸将をつれて水攻め見物に出かける(「水責めの体、御見物なさるべく候条」)、と高らかに宣言していますし・・
姜維伯約 > 秀吉が、水攻めに固執した理由として上げられるのは、自分の富と力を関東の新参諸将に見せつける為、というのが考えられます
小姓 > 内藤虎次郎殿、ようこそお越し下されました。
姜維伯約 > 中間管理職の悲劇・・といった所でしょうか?
保科正之 > …我が父・徳川秀忠より、酷なものがありますな。(汗
額田王 > つまり操り人形…?(汗
姜維伯約 > これらの書状から、忍城水攻めは秀吉の指示であった可能性が、極めて濃厚ですか、何故秀吉は水攻めを命じたのでしょうか?
李淵淑徳 > 三成は総大将というより、お目付け役ですな(苦笑)<遠隔操作
保科正之 > 司令官が現場に出ずに、ただ図面だけで策を練るような戦は、その大将のいる方が負けである、とは故人の言ですが、まさにその通り、と。
姜維伯約 > そうでしょうね<その為に三成を総大将に据えた
姜維伯約 > 。「忍城攻めで首三十とったのは結構なことだが、忍城はともかく水攻めにする。このことしっかり申しつける。(とかく水責仰せ付けらる事候間、其の段申し付くべく候也)。)」
李淵淑徳 > 秀吉は忍城が堅城、攻めるに難しい、周りが湿地という情報で水攻めが有利と判断したのかもしれませんね
内藤虎次郎 > そのために、三成を総大将に据えたのでしょうかね?>遠隔操作
保科正之 > …ということは、実際に水浸しにするのではなく、あくまで脅して、開城に持ち込もうとしていたのですか? >20付の書状
姜維伯約 > さらに、七月三日の浅野長吉あての書状では・・
額田王 > 成る程…でも、何故秀吉は水攻めを命じたんですかね?地形的に難しいのに…
姜維伯約 > 秀吉は、二十日付けの書状では、三成に水攻めの絵図を提出させ、「築堤が進んだら使者をだして自分の承認を受けるように(普請大形でき候はば、御使者を遣わされ、手前に見させらるべく候の条)」と述べています
保科正之 > …高松城での、華麗な勇士を再現したかったのでしょうか…あの人。(笑
大平清九郎 > 遠隔操作されていた軍だったのですか?
李淵淑徳 > 現場見ずに水攻め指示したのか(苦笑)<秀吉
姜維伯約 > その可能性が非常に高いのです<秀吉からの命令
保科正之 > …ということは、この合戦の敗因は、秀吉の責任である可能性が高い、と。
姜維伯約 > 成る程<疑問符を見抜いていた
額田王 > 水攻めは三成の意志ではなく、秀吉からの命令だったと…?
姜維伯約 > そうですね、<最初から水攻めが決まっていた
李淵淑徳 > (ちょっと質問が遅かった^^;)
李淵淑徳 > つまり、決めてかかるってのは最初から水攻めが決まっていたということですか?
姜維伯約 > 水攻めが始まったのは六月十日であるが、十二日付けの書状において、すでに秀吉は三成に対し、水攻めの方法、戦後処理などについて細かく指示を出しているのです
姜維伯約 > 一方で、この時期の秀吉の書状を見ていると、秀吉が実に細かく水攻めの指示をしている事がわかります
保科正之 > 政治家・三成は、或いはこうして付近の住民が自分たちに味方するのかどうか、その疑問符を見抜いていたのかもしれませんね。
保科正之 > その駆り集められた農民の中に、先に述べたように成田氏を慕うもの達が混じり、作業をしたそうです。
姜維伯約 > 水攻めと決めてかかる諸将の消極さを嘆いているので、部下が言う事をきかなかったと言う事では無いと思います
保科正之 > ふむ…付近の農民たちを駆り集めて作業を行った、と通説にはなっていますが、これには続きがあって…
額田王 > ??では誰が…水攻めを提案したんですかね??<三成が批判的
保科正之 > …後年の、関ヶ原での悪夢の原点が垣間見えますね…
内藤虎次郎 > つまり、部下が言う事をきかなかったと?
姜維伯約 > ここから、石田三成は水攻めに批判的であった事が読み取れます
保科正之 > 実際、江戸幕府の悩みの種でもありましたし。 >荒川 >そのために河川の流れを変えたり…
姜維伯約 > 意味→「忍城攻めのことについては、大体準備はできました。しかし諸将は水攻めと決めてかかっているので、全く攻め寄せる気がありません。」
保科正之 > 商店→焦点 (汗
姜維伯約 > 「忍之城之儀、御手筋を以て、大方相済に付けど、(中略)然る処、諸勢水攻之用意候て押寄る儀これ無く」
姜維伯約 > 実は、水攻め開始直後の六月十二日付の書状で、三成はこの様に述べているのです
小姓 > 大久保利通殿、またお越し下さいませ。
大久保利通 > ではでは
大久保利通 > 本当にごめんなさい。
大久保利通 > すいません、途中ですが、落ちなければならなくなったので、今日はこの辺で落ちます。
額田王 > …?というと…??水攻めは三成の意志ではないと??
保科正之 > ただ…彼が利用したと思われる「荒川」は、その名の通り、かなり荒れ狂い、進路も予測できない河なので…あえて戦術家としての三成を弁護するなら商店はそこですねぇ…
姜維伯約 > 訂正↓忍氏→忍城
姜維伯約 > では、本当に三成は忍氏をを水攻めにする事の困難さに気付いてなかったのでしょうか?
額田王 > そういう見解にならざる得ませんね…<戦下手
保科正之 > はじめは遠巻きに見ていたようです。 >策 >つまり、攻囲していた…?
額田王 > そうですね…<水攻め
姜維伯約 > それなのに水攻めを企画して、それを敢行した・・と言う事であれば石田三成は完全に「戦下手」ですね
内藤虎次郎 > 戦術家としての、三成は、評価しかねるような気がしますね。
保科正之 > ふむぅ…それがいかほどに出来たかは、当時の城内の物資量などを見て見ない限りは立証できませんが… >狙い撃ち(矢玉の数) >理論上は、もっとも納得の行く筋です。わかりました。
李淵淑徳 > 三成は混成軍ですし余り損害出すわけにはいかなかっただろうし・・・
姜維伯約 > 先ず忍城の地形から考えて、水攻めはかなり難しい事が解りますね
大平清九郎 > なるほど。一筋縄ではいかなかったのですかぁ。
李淵淑徳 > 城守るのに余り訓練はいりませんからね。士気高いとかなり有利ですね
内藤虎次郎 > 何か、策を練らないと難しいですね。>忍城攻略
姜維伯約 > 周囲が沼地・低湿地ですから、城に近づいていく兵は狙い撃ちですからね<力攻めは難しい
保科正之 > いや、5000と言っても、3000以上は多く訓練を受けていない商人や農民だったそうです。成田氏の仁政に懐いて、そのために集まった人間だそうですから、士気だけは高かったでしょうが…
内藤虎次郎 > 力攻めをすると、かえって損害が出るような気がしますけど。
内藤虎次郎 > 5000も篭ってたら、三成の兵力では、潰せませんよ。
保科正之 > …ですね。(汗 >タブー >被告人の人権を無視する用語は裁判では使えないですからねぇ…(汗
額田王 > 確かに…兵力的には上回っていたんですね…?
李淵淑徳 > 攻者三倍の原則は満たしてますね<力攻め
大平清九郎 > わざわざ手間のかかることをやったということなのですかねぇ
姜維伯約 > それはタブー(笑)<何故大将を任せたのか
李淵淑徳 > 平坦・・・ということは、堤防決壊したら、辺りに水が広がっちゃいますね城は石垣で平地でも高いですし
保科正之 > まず、この時の城の守兵は5000にも満たなかったと言われていますね。力攻めをしなかったことが疑問と言えば疑問…
額田王 > 平坦地で水攻めは、かなり難しいんじゃ…
内藤虎次郎 > その話の流れでは、三成の陣のほうが、城より低かったと考えられますね。
保科正之 > そもそもの疑問は、文官上がりの三成に、何故大将としての采配を任せたのか、という所にもあるように思われるのですが…(汗
姜維伯約 > 忍城の周囲は全くの平坦地で、周囲に丘陵等、自然堤防にあたる地形は無い・・となってます
内藤虎次郎 > 水は、低いところに流れるのが自然のはず・・・・・。
李淵淑徳 > 6月・・・旧暦の六月か、今の暦に直して六月じゃ、また違うし・・・
内藤虎次郎 > 忍城は、高台にあったわけですか?
姜維伯約 > 確か、初陣では無かったと思います<忍城攻め
保科正之 > …これって、三成の初陣でしたっけ? >忍城合戦
額田王 > 6月…のはず<城攻め
姜維伯約 > 先ず、通説を見て疑問に思う事は無いでしょうか?>皆様
保科正之 > この時に、城を守っていたのは城主・成田氏長の妻と娘、特に娘の甲斐姫が有名ですね。
李淵淑徳 > 大雨が降る季節なら、それを考慮に入れた堤を築く必要があったともいえますが、季節的にはどうだったんですか?
内藤虎次郎 > ざっと見た感じ、戦術的(特に、攻城戦)では、どうか、ですね。
仙桃院 > ほぇ・・
大久保利通 > なるほど。
額田王 > 大雨…成る程…
内藤虎次郎 > ふむ。
姜維伯約 > と言った所ですね<通説での忍城攻め
姜維伯約 > 水の退いたあとは以前にも増した泥濘地となって、城攻めどころではなくなってしまい、結局寄せての城攻めでは落城せず、小田原で秀吉に帰順した城主・成田氏長の勧告により、一ヶ月以上の籠城のあと、ようやく開城。
李淵淑徳 > 大雨かあ・・・
姜維伯約 > 堤はわずか5日で完成、城の廻りに水がたまり始めたものの、ある日突然大雨が降りだして堤が決壊。濁流は城ではなく、寄せての三成らに襲いかかり、水攻めは失敗に終わってしまう
保科正之 > 忍城…現・埼玉県行田市。関東北条氏の重鎮・成田氏が守っていた。北条家と上杉家の間での争奪戦も数多くあったと伝わる。
姜維伯約 > 早速近在から十万の人夫を集め、忍城を囲む堤を作り、城を水没させようと企てました
姜維伯約 > 城攻めの上手くいかない三成は、近くの小山(丸墓山)に登って周囲の地形を俯瞰し、秀吉の備中高松城攻めに習って、この忍城を水攻めにすることを思いつき
大久保利通 > 二万三千余・・・凄い人数。
姜維伯約 > 忍城は関東七城に数えられる程の名城であり、城の周囲は沼地・低湿地で囲まれ、大軍を持ってしても容易に近づくことすらできず、城攻めは難渋を極めました
姜維伯約 > 大軍を率いた三成は、まず館林城に向かいこれを降伏、開城させ、次に忍城に向かいました
姜維伯約 > 三成が率いるのは盟友・大谷吉継、長束正家の他、佐竹義宣、多賀谷重経、北条氏勝、真田昌幸ら東国の大大名ら総勢二万三千余の大軍でした
保科正之 > さすがは先生。鋭い指摘です。 >湖南先生
姜維伯約 > その一隊の大将に三成が任じられました
姜維伯約 > この時、秀吉は大軍を率いて小田原城を囲んでいたが、それと同時に、別働隊を用いて、北条方の関東諸城を攻略することとし
姜維伯約 > 三成の忍城攻めは、天正十八年(1590年)六月、秀吉の小田原攻めと平行して行われました
姜維伯約 > では、通説での「忍城攻め」を確認したいと思います
内藤虎次郎 > それが、わからんと、三成が戦下手かどうかわかりませんからね。
額田王 > 了解です<戦
保科正之 > Warの方ですね。 了解です。
大久保利通 > 了解です。
李淵淑徳 > 戦略的な範囲からということですね<戦の範囲
内藤虎次郎 > なるほど、了解しました。
小姓 > 大平清九郎殿、ようこそお越し下されました。
姜維伯約 > 戦略を練る所から実際に兵を統率していく所・・までを今回は「戦」としたいと思っています
内藤虎次郎 > いや、時代的な枠組みではなく、「戦」という言葉の扱う範囲を知りたかったのですよ。(汗)
額田王 > はい
保科正之 > 了解しました。 >流れ
大久保利通 > 落ちてました^^;
姜維伯約 > 先ずは、戦下手と言われる事になった「忍城水攻め」から始め、「朝鮮出兵の際の活躍」最後に「関ヶ原」という流れで進めたいと思います
小姓 > 大久保利通殿、ようこそお越し下されました。
内藤虎次郎 > まず、伯約殿に質問ですが、「戦下手」の「戦」とは、どこまでを「戦」と含むつもりでしょうか?
額田王 > 判りました<前編
保科正之 > 了解しました。関ヶ原本戦に注目するわけですね。
保科正之 > 「疑わしきは罰せず」、よって冤罪となったわけですね。
李淵淑徳 > 了解です<前編
姜維伯約 > そこで今回は、前回とは視点を変えて、「本当に戦下手なのか?」と言うテーマで進めていきたいと思います
保科正之 > ふむふむ。参加者の皆様は、ホーム→歴史会過去ログ→戦国歴史会→三成を弁護する 〜前編〜 を参照にして下さい。
姜維伯約 > 千利休については、秀吉が用済みになった人物を捨て様としたが故の結果・・と言う結論を得ました
姜維伯約 > 他の事件(?)については、氏郷の死は病気であることが当時の記録から明らかであり、淀殿が秀頼を身篭ったとき、三成は朝鮮にいた事から、これも冤罪となりました
小姓 > 額田王殿、ようこそお越し下されました。
姜維伯約 > 「関白秀次誅殺」事件では武功夜話の前野長康の証言より、冤罪の可能性が高い。
大久保利通 > こんばんは^^
小姓 > 大久保利通殿、ようこそお越し下されました。
姜維伯約 > ええと、前回では、「関白秀次誅殺」「千利休切腹」「蒲生氏郷毒殺」「加藤嘉明暗殺」事件について取り上げました
姜維伯約 > そうですね<ダイジェスト
姜維伯約 > 石田三成は何時の世も「戦下手」と言われていますが、実際はどうだったのか?と言う所から始めたいと思います
保科正之 > まず、前回までのダイジェストをまとめていただきたいのですが…
保科正之 > お願いします。
内藤虎次郎 > よろしくお願いします。
姜維伯約 > 皆様、宜しくお願いします
小姓 > 暫し、お待ちを!姜維伯約殿によって現在のお知らせが「歴史会「石田三成を弁護する〜後編」開催中」に設定されましたぞ。
小姓 > 保科正之殿、ようこそお越し下されました。
李淵淑徳 > はい よろしくお願いします
仙桃院 > よろしくお願いします。>伯約殿
姜維伯約 > では時間ですし、早速始めましょうか
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