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安倍晴明 > さて、申し訳ないが浅野どの、過去ログの件よろしく。
安倍晴明 > お疲れ様〜
保科正之 > ではでは。本当に有難うございました。楽しかったです。
安倍晴明 > では、また歴史会でお会いしましょう。
太公望 > ありがとうございました>皆さん
保科正之 > こちらこそ。よろしくお願い申し上げます。 >幹事様
安倍晴明 > 本日は長時間どうもお疲れ様でした。ありがとうございました。
浅野長矩 > こちらこそ宜しくお願いします>安倍殿
太公望 > 三成は決して無能ではなかった。けれど惜しいかな、あまりに正道に拘りすぎたために、結局は自滅してしまった
浅野長矩 > かなりのお勉強になりました。ありがとうございました>安倍殿
安倍晴明 > また、皆さんと歴史会でもっとお話したいと思います。次回もまたお願いしますね
楠木正儀 > とても参考になりました、長い時間本当にお疲れ様でした>幹事殿
安倍晴明 > 私見ですが、まけたとはいえこれだけの合戦をお膳立てした、三成の見方が違ってきたような気がします。
太公望 > 楽しかったですー♪ こんどはぜひ、大阪の陣の話をば………^^/
安倍晴明 > では、時間もだいぶ過ぎましたが、いかがでしたでしょうか?
安倍晴明 > 攻略の困難であること、代償が多きすぎるきらいもあってでしょうね>太公望殿
楠木正儀 > そうなんですかぁ・・<島津製作所φ(.. )めもめも
太公望 > ではそろそろまとめをお願いします>晴明殿
保科正之 > のち、この商家は発展し、島津の名と丸十字の紋を用いる様になる。これが、今日の有名な、島津製作所の始まりである
安倍晴明 > 島津に頼られた井伊は私怨を捨てて島津を守ったとありますから
楠木正儀 > これで戦国最大の決戦は幕を閉じるわけですね・・
太公望 > 家康自身が、追撃を中止させたとも言われてますね
保科正之 > (余談)この時、義弘が備前(だったか?)である商家に助けてもらう。そして、その礼として島津の名と丸十字の家紋の使用を、その商家は許された。
安倍晴明 > 島津の外交の勝利ですね。
安倍晴明 > まだ1万以上の軍勢が残っていたし、狙撃された井伊直政が島津を援護したといます
保科正之 > で、その帰国路でも多数の死者が出る有様…
浅野長矩 > ほう、そうなんですか<家康は島津家を潰せなかった
楠木正儀 > ほぅ・・φ(.. )めもめも
太公望 > このあまりの勇猛ぶりと九州南端の領地だったこともあって、家康は島津家を潰せなかったと言われてますよね
安倍晴明 > そうです、輿に載っていました。1500名が40名前後に減りそれでも義弘は伊勢経由で薩摩へ
安倍晴明 > そのステガマリの一人が井伊直政を狙撃して追撃が鈍ったそうです。
太公望 > 確か義弘は、馬でなくて輿に乗っていたそうですね?
安倍晴明 > ステガマリ、要するに身を捨てて主君を逃がす。恐ろしい戦術です
太公望 > 薩摩隼人、ここにあり! って感じですね
保科正之 > それでも、敵中突破できたのは義弘以下100名ほど。他、甥・豊久はじめ、皆戦死。
太公望 > ただ突破したときには…
安倍晴明 > 何と敵中突破を試みます。東軍は一瞬呆然としたといいますね
楠木正儀 > 強いですねぇ・・<島津
浅野長矩 > 強いですなぁ…島津隊
太公望 > 追撃する井伊直政を負傷させ、島津隊は離脱に成功
安倍晴明 > ここに関ヶ原の合戦終わる訳何ですが、最後に島津がやってくれます。
保科正之 > で、戦場に残るは、最期まで戦局傍観に徹した島津義弘隊…
太公望 > 一方、戦場に取り残される形となった島津隊千五百は、敵中突破を慣行
安倍晴明 > そうですね。
楠木正儀 > ついに・・三成隊は総崩れとなり、三成は北国街道を敗走・・
保科正之 > 石田三成自身は、重臣・蒲生郷舎の進言で伊吹山へ逃走。蒲生は戦死。
太公望 > 蒲生隊を犠牲にして、三成は戦線を離脱するんですよね
安倍晴明 > 午後2時頃まで石田隊もがんばりますが、ついに三成も逃走
保科正之 > 一方、敗戦濃厚の気色は三成陣営へも飛び火…東軍の猛攻の標的となる…
太公望 > これによって東軍の大攻勢を前に、ついに島左近も戦死
安倍晴明 > もうこうなるとどうしようもありませんよね、大谷、小西脱落
太公望 > この段階で東軍約九万四千、西軍は約三万。パワーバランスは完全に崩壊しましたね
楠木正儀 > さらに・・大谷吉継隊が全滅したとの報を受け、宇喜多秀家・小西行長隊は、総崩れとなり伊吹山方面へ敗走・・
安倍晴明 > 楠木殿のいうとおりですね
太公望 > ここまでで、午後一時ごろ
保科正之 > …その射撃で自軍に死者まで出ているというのに、撃った側に味方する根性がわからん。(汗 >お坊ちゃま
楠木正儀 > 戸田重政・平塚為広は討ち死に、大谷吉継も自刃するんですねぇ・・
浅野長矩 > 吉継も奮戦したのになぁ…
安倍晴明 > これにより、戦況は一変し、今まで動かなかった脇坂、赤座なども裏切ります
楠木正儀 > この動きを見て、寝返った赤座直保・小川祐忠・朽木元綱・脇坂安治隊の攻撃を受け、大谷吉継隊は後退・・・
楠木正儀 > 大谷吉継は、予め小早川秀秋の後背に備えていたため、一時は小早川秀秋隊を押し戻すのですが・・
太公望 > 背後からの攻撃となった大谷隊は支えきれずに崩壊、吉継は自害
安倍晴明 > その通り、正午過ぎのことだったそうです。
楠木正儀 > そして小早川秀秋隊は、大谷吉継隊右翼を攻撃するんですよね
太公望 > これが正午ごろですね
浅野長矩 > 遂に出ましたね!<裏切り
安倍晴明 > 保科殿もいったように鉄砲の射撃でついに「裏切り」!
太公望 > ところが毛利隊は、先陣の吉川隊が動かないので全く行動できず…
安倍晴明 > 小早川の軍は約1万5千、何もせず無傷でしたから、喉から手が出るくらいほしかったでしょうね
楠木正儀 > 訂正↓うががそう→動かそう
楠木正儀 > ついでに(?)西軍は南宮山の毛利秀元隊もうがかそうと狼煙をあげますね
太公望 > ………なんか、ヤだ(笑)
安倍晴明 > 陣を敵前に持って来たり、また最後には鉄砲を撃ちかけたり
太公望 > 戦いの行方を握るのは、優柔不断な秀秋ぼっちゃん
保科正之 > で、その挙句の行動が、小早川陣営への一斉射撃と。(笑)
安倍晴明 > 家康も相当いらいらしてたようですね。何とか小早川の参戦をうながすため両軍必死でしたから
太公望 > ですよね。東軍先鋒の人たちは、朝鮮の役で大砲の脅威は骨身に沁みているでしょうから
安倍晴明 > この10時前後の状況はまだあちこちで戦闘が続き、勝敗の行方はまだわかりません
安倍晴明 > 今の大砲のように正確ではありませんが、敵兵の戦意をくじくねらいがあったとも
浅野長矩 > ふむ
保科正之 > 野戦で大砲…先例があったようなないような…
太公望 > へえ………初耳でした>大砲の話
安倍晴明 > 「明砲」というのでしょうか、朝鮮の役の戦利品と確か書いてありました
保科正之 > …そんなもの運んでる暇があるなら、人身掌握に時間使えよ!と。 (笑) >大筒
太公望 > 日本史で初になるのでしょうか? 野戦で大砲というのは??
楠木正儀 > 轟音だけでも脅威ですからね<大砲
安倍晴明 > 死闘はまだまだはてしなく続きます。午前10時前後ですね
浅野長矩 > 大砲とは…なかなかの秘密兵器ですな
太公望 > うひょぉ! 大砲を持ち込んでいたのですか、三成は?>晴明殿
安倍晴明 > 一時は東軍を混乱におとしめます
太公望 > 石田隊、大谷隊、蒲生隊らの大奮戦ですね
保科正之 > まぁ、どちらへ転んでも結局は発狂死していたでしょうが(汗) >お坊ちゃま
安倍晴明 > と、ここで三成は大筒(3〜5門)を放ちます←秘密兵器です
保科正之 > 陣形の差、というより、西軍の戦闘している軍団の士気が異様に高かった事が原因かと。
太公望 > おやまあ………とっとと判断しろよ、ぼっちゃん(笑)<大学生の年齢なら
安倍晴明 > そうですね、関白の甘いえさ(表現がちとどぎついですが)
太公望 > 実質的に二倍する東軍に対して、ほぼ互角に戦っている西軍。やはり最初の陣形の力は大きいみたいですよね
保科正之 > いや、実年齢は今の大学生ぐらいですよ。 >お坊ちゃま
安倍晴明 > 左近の後退により、東軍の諸将は石田隊へ殺到します。
太公望 > まあ14〜16歳のぼっちゃんに、期待するほうが大間違い?(苦笑)
保科正之 > 餌…関白と言う人参と、おば様からのアマ〜イ誘惑。
楠木正儀 > 開戦から二時間後あたりでは実際に戦闘に参加している西軍の数は35000、対して東軍は7000なんですよねぇ・・
安倍晴明 > そうです、15日10時頃ですね
保科正之 > 裏切りの誘いを受けているにしろ何にせよ、そう言った重大事を経験のない自分の力量だけで解決しようとするところが謎。(笑) >お坊ちゃま
安倍晴明 > 東西両軍からえさを与えられてそうとう迷っていたようです。小早川
太公望 > 午前八時の開戦から、約二時間ほど経過してますね。今のところは?
太公望 > 家康から前もって裏切りの手紙を受け取っていたこともあって、余計に判断できなかったのでしょう<おぼっちゃん
安倍晴明 > 黒田長政が敵陣の左翼に鉄砲隊を回し一斉射撃をします。左近も被弾し後退をよぎなくされます
保科正之 > 一説に、松野主馬(まつのしゅめ、松野重元)らの重臣が参戦を迫る中、一向にオドオドしたまま采配の一つも動かさなかったとか。 >お坊ちゃま
楠木正儀 > 大谷吉継隊は、小早川秀秋の後背に備えて兵の一部を割いていたんですよねぇ
太公望 > 一方、大谷吉継隊も東軍相手に善戦してましたね
保科正之 > ただ彼らの場合、迎撃と言うよりは自ら前に出て攻めていたので、防戦用に自分達で作った策の中に閉じ込められる格好になってしまったんですよねぇ… >石田隊
楠木正儀 > 狼煙も無視しますしね(笑)<秀秋
安倍晴明 > そうですね>保科殿
浅野長矩 > やっぱりぼっちゃんですよね(笑)<小早川
太公望 > 一度は負傷して下がった島左近。けれど応急手当を受けるや、再び前線に出て戦った
安倍晴明 > 何やってるんでしょう小早川は?本当に困った人だ(笑)
保科正之 > 島左近のほかに、蒲生郷舎(がもうさといえ)らの奮戦も見られますねぇ… >石田隊
太公望 > さすが知行の半分をもって召抱えただけのことあった、島左近
安倍晴明 > 石田隊の場合は島左近の奮戦が大ですね。貢献度
太公望 > 小早川隊を初めとした残りの軍は日和見、もしくは前衛が進まないので動けなかった
安倍晴明 > 楠木殿がいうとおり序盤は西軍が優勢でした。
楠木正儀 > なんせ一時間後あたりには三成が島津義弘に応援を要請するほどですからね<激戦
安倍晴明 > しかし、西軍は宇喜多、石田、大谷隊など3万6000くらいしか参戦しません
楠木正儀 > 最初は西軍が優勢だったんですよねぇ
太公望 > 特に石田隊の指揮官・島左近と黒田隊の戦いは、激戦になったそうですね
楠木正儀 > ほぅ(笑)
太公望 > 食べてすぐに走るとお腹痛くなりますし(爆)
安倍晴明 > 福島隊と宇喜多隊、黒田、細川らは石田隊へというふうに乱戦となります。
太公望 > もし決戦直前にご飯を食べていたとしたら、みんな腹痛で大変だったでしょうね(笑)
保科正之 > ただ、結構朝霧が深かったらしいので、実際どの程度まで炊事が出来たのかは疑問の残るところですが…(笑)
太公望 > 両軍先鋒による、決戦の幕が上がったのですね
安倍晴明 > そして、他の隊も参戦するわけです。
太公望 > そして砲撃を受けた宇喜多隊が反撃したことを戦闘開始の合図として
安倍晴明 > そうです>保科殿
楠木正儀 > 成る程・・φ(.. )めもめも
太公望 > なるほど。了解しました>保科殿
保科正之 > 実際の着陣はもう少し前なので、その間の時間に食事を取っていたみたいですよ。
太公望 > 素朴だけど、言われてみたら気になる問題ですよね(笑)>楠木殿
保科正之 > 確か、「先駆け(先陣)は我らが」と言う意気込みから、松平忠吉の名を押し立てた井伊直政が、福島隊の先陣・笹(可児)才蔵の部隊をすり抜けて、前に出たんでしたっけ。
楠木正儀 > 八時頃ですかぁ・・食事は取ってたのだろうか・・(笑)
安倍晴明 > 正確にいうと15日の午前8時前ごろとのことです>楠木殿
浅野長矩 > ふむ、そのようですね
安倍晴明 > 福島隊が先陣だったが、井伊隊の発砲によりとあります
楠木正儀 > 15日ですねφ(.. )めもめも
安倍晴明 > 楠木殿のいうとおりですね。正解です
太公望 > あ、そか。十五日でしたね。すいません
安倍晴明 > すいません、入力間違いです
安倍晴明 > 申し訳ない15日の間違いです。
保科正之 > E 直政・松平忠吉の出し抜けの威嚇射撃に驚いた福島正則隊です。
楠木正儀 > 井伊直政ですね<口火を切った武将
太公望 > ん? あ、九月十四日ですよ>晴明殿
太公望 > 東軍の福島隊と聞いていますが…
楠木正儀 > ・・関ケ原って25日なんですか?
安倍晴明 > では、戦闘の口火を切ったのは誰でしょうか?
保科正之 > その時間帯には、朝霧がかかっていたようですね。
安倍晴明 > 9月25日、午前5時〜6時の間にほぼ両軍布陣をおえます
太公望 > あうう。先走って申し訳ない…>晴明殿
楠木正儀 > そう言えば・・南蛮甲冑と言う切り札が東軍にはあったとか・・(脱線失礼)
安倍晴明 > 軍勢は太公望殿のおっしゃるとおりです
太公望 > お願いします>晴明殿
太公望 > 東軍七万四千に対し、西軍八万二千。おまけに家康本陣のほぼ背後に小早川軍が配置されてるのですから…
浅野長矩 > 了解です<合戦
楠木正儀 > 了解<合戦
保科正之 > 了解です。 >合戦
安倍晴明 > さて、ではそろそろ合戦の模様に移りますか。いいですか?
保科正之 > 西軍の陣形は、いわゆる殲滅型の、半包囲陣形。対する東軍は、どちらかと言うと、鋒矢の陣形のように、敵の囲みを潰すような格好でしたからねぇ…
太公望 > と、言うより、誰が見ても西軍有利ですよ。関ヶ原の配置図を見たら
楠木正儀 > 確かに、あの陣形は西軍有利ですからね
安倍晴明 > ですが、内部はぼろぼろですね(笑)
太公望 > ですね。ドイツの将校と聞いてますよ>晴明殿
安倍晴明 > いちおう西軍の陣形だけは、メッケルという人が見て西軍の勝ちと断言したという話もありますが
太公望 > ですよね。大津城が東軍側にあっては、大阪〜京〜関ヶ原までの兵站線が破綻してしまいますしね
保科正之 > 宗茂さん…本当にあの人がいればなぁ…
太公望 > 三成ってば、不幸!(笑)
保科正之 > そういう話もありますね。 >反転 >ただ、大津城は戦略的にも落さなければならない城でしたから。行うにしても、もう少し時間が必要だったと思いますよ。
浅野長矩 > 裏切る前にも秀秋はすでに西軍にとって悪い事をしてたんですね(笑)
太公望 > いやはや………(苦笑)
安倍晴明 > 立花宗茂隊だけでもいたらまた戦況はく変わったかもしれませんね
安倍晴明 > 両軍を加えて有利に立とうとしたとも
保科正之 > つまり、当初の光成の案はそれだったらしいのです。 >持久戦 >でも、どこぞの御方の乱入のせいで丸つぶれに…(笑)
安倍晴明 > 大津城攻略に向かった毛利の部隊と立花宗茂を反転させて
太公望 > 当時14歳でしたっけ? 小早川秀秋は??
安倍晴明 > 一説には、松尾新城を利用して持久戦やろうとした説もありますが
太公望 > なんとまあ………あのおぼっちゃん大名の秀秋が、肝心要な松尾山に…………
保科正之 > そうです。 >幹事様 >こうして、関ヶ原への西軍の布陣は、作戦を覆された挙句の行動だったのでは、と類推できるわけです。
浅野長矩 > ですねぇ(笑)<強気
楠木正儀 > 意外と強気なんですね・・(笑)<小早川秀秋
浅野長矩 > 初耳ですなぁ…<小早川
保科正之 > その、三成らの撤退要求も刎ね付けてそこに居座ったのが、実は小早川秀秋だったり。
太公望 > なんと! あの小早川が?!
楠木正儀 > そうでしょうかねぇ<三成と家康の差
安倍晴明 > しかし、輝元は動かず変わりに小早川秀秋が松尾新城に入った
保科正之 > というのも、本来毛利輝元らが入る筈であった松尾山新城(松尾山=関ヶ原にある、小高い山)に、予想外の人物が、しかも修築途中に入ってきてしまったのです。
浅野長矩 > そうですね…そしてその戦意の差は「三成」と「家康」の差でしょうか?>楠殿
太公望 > 半分失敗?>保科殿
楠木正儀 > やはり戦意に差があり過ぎたように思えます・・<伏見とは大違い
太公望 > ですね。八月二十三日に岐阜城は開城しています>晴明殿
保科正之 > とまぁ、最終的に三つ目の案が採用されるわけになったのですが…実はこれも半分失敗しておりました…。
浅野長矩 > そうですね
安倍晴明 > あまりにあっけないですね。伏見にくらべると大違い
保科正之 > そして最期が、関ヶ原にまで誘い込み、毛利輝元或いは宇喜多秀家(総大将・副将)に、新しく築城する松尾山新城に入ってもらい、そこで篭城+迎撃する
安倍晴明 > 確か2日で岐阜城は落ちたですから
太公望 > ところがそれも、岐阜城の陥落で廃案になった?
保科正之 > しかし、これも岐阜城の落城により失敗。
保科正之 > 二つ目は、岐阜城〜大垣城のラインで迎え撃ち、殲滅を狙う。
楠木正儀 > ほぅ・・と言う事は事前に打ち合わせてあったんですねぇ・・<秀忠の遅参
保科正之 > ところが、この案はその一帯の領主であった福島正則の東軍への味方により決壊。
太公望 > 見越されてたんだ、秀忠の遅参は(苦笑)
安倍晴明 > β(□-□ ) フムフム
浅野長矩 > ほう、3つのプランですか
安倍晴明 > 決戦前夜まさにその通りですね>太公望殿
保科正之 > 一つは、尾張〜三河国境で家康を迎え撃つ (秀忠遅参を見越して)
楠木正儀 > 同八月二十三日には東進の前線となるべき岐阜城が、福島正則らの攻撃を受け落ちてしまうという状態ですし・・
安倍晴明 > どんなのでしょうか?よければ教えてください
保科正之 > そうです。 >三つのプラン
楠木正儀 > しかも八月初めに伊勢・美濃へは進出したものの、相変わらずのもたつき具合で、美濃の墨俣城に島津義弘を入れた頃には、既に、福島正則以下の東軍の諸将は三河に戻っており・・
安倍晴明 > 3つのプランですか?>保科殿
楠木正儀 > そうですねぇ(笑)<上出来
太公望 > いよいよ関ヶ原決戦前夜ですね>晴明殿
楠木正儀 > これは、東軍の主要は関東にあるわけですから、必要であれば最小限の押えを残し、多くが東征して主不在の伊勢・美濃・尾張・三河・遠江と、急ぎ東進すべきであったと思います・・
楠木正儀 > 更に、西軍は、先に人質を差し出して家康に屈した前田利長に対し、大谷吉継を主将とした北陸方面軍を派遣・・
安倍晴明 > さて、途中8月23日東軍により岐阜城落城、そして、9月2日から14日くらいにかけて西軍が布陣をおえます
保科正之 > ふむ。光成は家康迎撃にあたって、大きく三つのプランを立てているようですね。
太公望 > あの人望も人気もない三成が実質的に総大将の西軍してみれば、上出来ですよ^^;>楠木殿
楠木正儀 > 同様に、一万五千の兵を持って臨んだ細川幽斎の丹後田辺城攻めでは、結局関ケ原での合戦が終結するまで二ヶ月近くも、漫然と攻囲を続けるといったありさまですし・・
太公望 > それでも八月末までに、伊勢〜美濃のラインまで西軍は進出してますし
楠木正儀 > 伏見城攻略に錚々たる大軍を催しながら、十日以上も浪費し・・
保科正之 > ←もとい、馬鹿にしている親不幸者(汗
保科正之 > いえいえ。西軍(といっても三成の問題でしょうが)は、家康の軍を迎撃するためにあらゆるプランを立てていますよ。
保科正之 > ←親父の言葉かにしてる親不幸者…(汗
浅野長矩 > そういっていただけると嬉しいです>安倍殿
楠木正儀 > その頃の西軍の動きは・・全く緊迫感が感じられないですよねぇ・・
保科正之 > 爆。 >めでたしめでたし >後年、そのバカ律儀さが買われて、将軍になったそうな。(笑)
安倍晴明 > よかったですよ、さすが浅野殿、詳しいですね。
安倍晴明 > 浅野殿の解説にもあったように、結局家康は手持ちの軍だけで戦いをしなくてはならない羽目になったわけです
浅野長矩 > というわけで長くなりましたが、解説はこんな感じで宜しかったでしょうか?>安倍殿
安倍晴明 > よくわかりました。どうもありがとう浅野殿
太公望 > でも真田の追撃を恐れた秀忠軍は、あえて難所である大門峠越えを行ってしまった
楠木正儀 > 成る程・・φ(.. )めもめも
浅野長矩 > しかし、関ヶ原の戦いはもうすでに終わっており、まちうけていたのは家康の叱責だけだったとさ。めでたしめでたし(違)
安倍晴明 > 確か7日間むなしく過ぎ家康にあとで大目玉くらったんですよね秀忠
浅野長矩 > そして秀忠は家康からの督促もあり、上田城攻略をあきらめて中山道をひらすら走りました
保科正之 > 大軍ゆえの慢心、山岳に囲われた上田と言う地形、そして真田昌幸の知謀が三位一体となって可能にした戦法ですね。 >ゲリラ
浅野長矩 > 3万8千の徳川軍はただただ時間を浪費するだけで、上田城を攻略することはできませんでした
浅野長矩 > そうですね>安倍殿
太公望 > 真田のお家芸ですね<ゲリラ戦法
浅野長矩 > このように真田軍による、巧妙なゲリラ戦法が徳川軍を混乱させました
安倍晴明 > ゲリラ戦法ですね、いわゆる
浅野長矩 > そして上田城の大手門からも鉄砲隊に一斉射撃され、さらにあの幸村隊が出撃し、暴れまわります
浅野長矩 > そのとき、秀忠本陣の北方、「虚空蔵山」から突如、真田の一隊が現れ、秀忠本陣を側面から襲撃します
浅野長矩 > そしてやがては逃げ出した真田軍を徳川軍は追撃し、上田城へと迫ります
安倍晴明 > β(□-□ ) フムフム
浅野長矩 > しかし3万8千対2千5百の勝負。真田軍もやがては徳川軍におされてきます
太公望 > 家康ですら落とせなかった上田城、まだ若い秀忠に落とせるわけも無かった。ということですね
楠木正儀 > 真田のお家芸ですね<篭城
浅野長矩 > そういうことですね(笑)>保科殿
浅野長矩 > 城から出陣した真田軍は逃げたり応戦したりして、徳川軍を伏兵のいる場所へ誘い込みました
保科正之 > 律義者、の正確が災いした格好になったんですよね。(笑) >偽開城申し入れ
浅野長矩 > しびれをきらした秀忠は総攻撃を命じます
浅野長矩 > 秀忠はこの言葉を信じ、4日間待ちますが真田軍にはなんのかわりもなく、そうこうしているうちに6日たちました
太公望 > ところがどっこい、真田に和睦の意思はなかった
安倍晴明 > なるほど
浅野長矩 > とほとんど和睦交渉のような事を昌幸は秀忠に言います
安倍晴明 > 上田城攻略戦からです
浅野長矩 > 「そんな大軍をこのちっぽけな城で防げるはずがない。城をあけわたす準備をするから4日ほど時間をくれ」
浅野長矩 > まず、昌幸は時をかせぐことに専念します。何せ目的は3万8千の大軍を足止めすることですから
保科正之 > 幹事様の責任、というより、某の余計な突っ込みのほうが迷惑かけてますね。(陳謝)
安倍晴明 > では、続きをどうぞお願いします。浅野殿
安倍晴明 > 楠木殿よければ参加しませんか?
安倍晴明 > 太公望殿はいいですか?
楠木正儀 > 私も大丈夫です<時間>幹事殿
太公望 > もちろん平気ですとも>晴明殿
安倍晴明 > 幹事の不手際で、すみません
浅野長矩 > 僕は大丈夫です>安倍殿
保科正之 > 全然結構です。面白い話題なので。(笑)
安倍晴明 > 申し訳ない時間皆さんいいですか?オーバーしちゃいましたけど
安倍晴明 > ええ、おおまかで結構です
浅野長矩 > わかりました。あやふやなところもありますが(なにせ資料を貸しているので)どうかご了承を
安倍晴明 > おおまかな流れでも、よければお願いできますか?
浅野長矩 > 解説ですか?
浅野長矩 > 真田昌幸の上田城で秀忠は足止めされることになりますね
安倍晴明 > すこし、上田城攻略戦でも解説してもらえませんか。
保科正之 > 確かに。武功派諸将が賛同しない事には、家康の一人相撲となって、大義も何もなくなってしまいますからねぇ・・・。 >利用
安倍晴明 > だが、中山道には真田昌幸がいる。ここは浅野殿の解説がほしいですね、いかがです浅野どの?
太公望 > ところが中仙道の大将・徳川秀忠は真田の策略に引っかかって、別働隊約三万は、中仙道で足止めされてしまった
安倍晴明 > そのとおりですね>太公望殿
保科正之 > で、東海道を進むのが家康以下、福島正則ら武功派大名を中心とする軍勢。中山道方面は徳川秀忠以下、直参衆、と。
安倍晴明 > 一つには、豊臣恩顧の大名を何としても利用したかったおもわくがあるわけです
太公望 > 福島の言葉に諸大名も同調して、東海道と中山道の二手に分かれて進軍することになったんですよね
安倍晴明 > そうです、その後、浅野殿の言うとおりで、結城秀康を残して反転するわけです
小姓 > 楠木正儀殿、ようこそお越し下されました。
太公望 > 小山会議で家康は、上杉を討つか、上洛して三成を討つかを諸大名に図った…
安倍晴明 > 他の諸将も大半が賛同します。
安倍晴明 > 有名な「小山評定」ですね。ここで福島正則が「妻子を捨てても内府殿にお味方すると」言います。
浅野長矩 > 挙兵を知った家康は会津のおさえとして結城秀康を置き、江戸に戻るんですよね
保科正之 > 岐阜城の織田秀信(信長孫)は、東軍の池田輝政らの猛攻による、落城をもって東軍についていますね。で、秀信は出家させられています。
安倍晴明 > 一方家康は7月24日に小山に到着後三成の挙兵を知るわけです
太公望 > 大垣城と目と鼻の先の岐阜城の織田信秀は西軍に着き、美濃までが西軍の影響下に落ちた
安倍晴明 > そうですね>保科殿そのとおりです(^^
保科正之 > 城主・細川幽斎(藤孝)の古今伝授(古今和歌集の講義方法)に動かされたためですね。 >朝廷による田辺城和睦勧告
安倍晴明 > そして、8月10日に三成は大垣城にはいる事になります。
太公望 > 北国街道を西軍が押さえたのが八月九日でしたね。
太公望 > 伏見落城が八月一日、田辺城(丹波国)が九月二日に天皇の仲裁で開城、
安倍晴明 > 三成が業をにやして督戦に駆けつけてやっと落ちたくらいですから。
安倍晴明 > そのとおりですね>太公望殿
安倍晴明 > ひとつには、家康の東下の時間かせぎですか
太公望 > それも一説によれば、城内の甲賀衆の裏切りによるものだという説もあるそうですが………先を続けてくださいませ
保科正之 > その時は、「弾薬が不足したら、城の金銀でも鋳潰して使え」と家康が命じたほどの戦になったようですね。 >伏見城攻防戦
安倍晴明 > 7月18日くらいから8月1日にいたってやっと落城したくらい頑強な抵抗をつづけました。
浅野長矩 > ところが伏見城は容易には落ちなかった…
太公望 > 1200人と言う説もあるそうです<伏見城
安倍晴明 > 伏見城には鳥居元忠が守ってましたが、宇喜多秀家以下約4万の軍勢で囲みます。城には約1800名といわれています
安倍晴明 > また、別に、大津城、田辺城に約3万を派遣してましたが
太公望 > 先を続けてくださいませ>晴明殿
安倍晴明 > そうです、説明は省略しましたが>太公望殿
太公望 > 北陸、伊勢、近江の線より西側は、全て西軍の影響下に入ったそうですね>晴明殿
安倍晴明 > 元が抜けてました。では、伏見城攻略あたりからいきますか
安倍晴明 > 西軍が挙兵し、総大将に毛利輝を迎え、総兵力は9万5000人となったそうです
浅野長矩 > 了解致しました
太公望 > はい>晴明殿
保科正之 > 了解です。 >省略
安倍晴明 > 時間もだいぶたちましたので、途中いろいろありますが申し訳ない省略しますね
太公望 > お願いします>晴明殿
保科正之 > 進めてください。 >幹事様
安倍晴明 > さて、上杉征伐に向かうと、三成がいよいよ挙兵します。次進めていいですか?
太公望 > 伏見城を捨て札にして、三成の蜂起を狙った>浅野殿
保科正之 > なるほど。 >2.5人/100石
浅野長矩 > そして重要なのは伏見城ですよね
太公望 > 百石で約2.5人の兵力が確保できたと、旧日本帝国陸軍が試算しているそうですよ>保科殿
保科正之 > ただ、三成―直江兼続のラインは見逃せませんので…定説となるには少し時間がかかりそうです。
安倍晴明 > おそらく太公望殿の言うのが有力説ですね
保科正之 > (補足)戦国中期の段階で、一万石につき300名前後の動員
保科正之 > 最近はその見方が力をつけつつありますね。 >単独行動
安倍晴明 > そうですね>保科殿、3〜4万くらい
太公望 > それぐらいでしょう>保科殿
太公望 > よくこれは『三成と上杉による家康挟撃策』といわれてますけど、実際には三成の単独行動でしょうね
安倍晴明 > 資料では、直江の返書がとどいた5月3日ごろとあります>浅野殿
保科正之 > 仮に家康の領国を三百万とすると、実質的直参の兵数はおよそ8万前後となりますが…領国防衛分を差し引くと、せいぜい3〜4万が限度でしょうね
浅野長矩 > そうですね
太公望 > これによって家康は、上杉討伐の大義名分を得た形になりますね
安倍晴明 > これによって私戦ではない事をねらいます
安倍晴明 > ですから、出陣前に秀頼から黄金1万枚と米2万石を賜ります
太公望 > 家康直轄は二〜三万前後でしょうか?
保科正之 > 同じく、それはほぼ定説になっていますね。 >三成の挙兵を目論む
浅野長矩 > 家康が上杉攻めを決意したのは4月25日あたりですかね
安倍晴明 > 七万といいますが、ほとんど豊臣恩顧の大名が多いです。
浅野長矩 > おっしゃるとおりです>安倍殿
太公望 > その説には、ほとんど間違いはないでしょうね>晴明殿
安倍晴明 > 上方を留守にすれば三成が挙兵するはず。それを利用しようとする意図があったみたいです
保科正之 > まず、直接の原因としては、家康が会津に上洛要請の使者を派遣したものの、あっさり上杉が無視した事が挙げられますね。
太公望 > このとき家康の直接指揮下にあった兵力は、約七万と言われてますよね
安倍晴明 > だいぶ、これには他の奉行も反対したみたいですが、家康は上杉征伐を強行します
保科正之 > そうですね。 >上杉征伐
安倍晴明 > さて、この辺からいよいよ上杉征伐へと向かうわけですね
安倍晴明 > でも、その元があるみたいでよかったです。
安倍晴明 > 確かに内容は痛烈です。後世に改ざんされた恐れもあるみたいですが
安倍晴明 > 世に直江状というのは、外交僧、西笑承?という人にあてた書状ですね
保科正之 > 脱線失礼しました。幹事様、よろしくお願いします。
浅野長矩 > ふむ
保科正之 > よく解かりません。 >太公望様 >ただ、直江兼続の墓には、今でもその様に細工されているらしいです。 >弾除け
保科正之 > アレを突きつけられた本人の心境が即座に伺えるほどの内容になっています
太公望 > 墓石………仏教尊重の上杉家の家老が、墓石を盾に??
安倍晴明 > 浅野殿のいうとおりかと思います。
太公望 > 慇懃無礼の塊?>保科殿
保科正之 > 一番驚いたのが、その軍備の中に、弾除け用の盾として墓石が使われていた事(笑)
浅野長矩 > 」ですよね>安部殿
浅野長矩 > そうですね。ですからそれが「直江状にちかいもの
太公望 > そうあってほしいです。<それに近いものはあった>
保科正之 > 一度、現物模写を見ましたが、それはまぁ、皮肉の凄い事。 >直江状
太公望 > むむむ…
安倍晴明 > でも、何か元となるような書状とかあったはずですよね>浅野殿
浅野長矩 > 十分ありえますよね<それに近かったものはあった>保科殿
浅野長矩 > そうらしいですよ>太公望殿
保科正之 > そうらしいですね。>直江状はフィクション >ただ、それに近いものはあったと某は見ています。
太公望 > フィクションなんですか?>浅野殿
保科正之 > で、直江状の曰く 「領内に武器や兵糧を蓄えておくのは武士として当然の事であり、上方の軟弱ものどもが茶道を身につけるのと同じ事である。何故咎められなければならない。」
浅野長矩 > ま、いずれにしろ、景勝は動かなかったわけですが
安倍晴明 > 話戻しますね。でもおもしろかったです。直江状から再開します
浅野長矩 > でも、その直江状はもともとフィクションらしいですね
太公望 > 同じく申し訳ないです(謝)
太公望 > ですね。>晴明殿
保科正之 > 話の腰を折って申し訳ないです(謝
太公望 > 今ふと、思ったのですが>皆さん
安倍晴明 > それって、単なる上杉のエゴですよ、堀には関係ないもの>太公望殿
浅野長矩 > ふむ、話を戻しましょうか
保科正之 > …で、その直江兼続が、その弁明(?)として家康宛に書いたのが直江状、と言うわけですね
太公望 > 関ヶ原談義から、上杉談義になってません?(笑)
浅野長矩 > 驚くのが普通ですよね(笑)
太公望 > さすがの上杉景勝も、この案には驚いたらしいですよ。
保科正之 > 兼続が、直江家を相続する様になったのも、一説に彼の謀略とか…(汗
太公望 > 直江曰く「越後に残る者たちの心の拠り所になり申す」だ、そうです^^;
安倍晴明 > 何かすごい悲惨ですね、堀家。なんだかかわいそう(笑)
浅野長矩 > 直江…ずるがしこいですね(^^;
保科正之 > らしいですね。 >寺社潰し >自分の信仰する宗派のみ残したとか言う事も伺ってはおりますが…(汗
太公望 > あ。あと謙信の墓を春日山城内に残したままにしたのも、直江の策だと聞きましたよ
太公望 > それで怒った寺社勢力が一揆起こすは、借金かさんで火の車になるわ、堀家にしたら上杉憎んで当たり前ですね^^;
安倍晴明 > なかなかおもしろいですね、そういう裏話!<上杉がせこい
浅野長矩 > そんな細かい事があったんですね<堀家と上杉家
安倍晴明 > それじゃ、そのはらいせに情報を流すのも無理ない(^▽^;)
保科正之 > 太公望様の仰るとおりで、直江兼継が地元の有力者を煽って起こさせたらしいです。 >一揆
太公望 > あと越後では、上杉謙信の方針で寺社の領地が多かったのですが、堀家はそれを認めずに没収した。とも聞いてますよ
安倍晴明 > 直江がですか?ふむありうる>太公望殿
太公望 > けっこうセコいな、上杉家^^;>保科殿
浅野長矩 > めっちゃ強い事しますね(笑)<上杉は>保科殿
保科正之 > で、その執拗ないじめに堀氏は辟易。密偵を積極的に会津藩へ放つ様になったというわけです。
安倍晴明 > それじゃ、上杉をうらみますよね<堀は
太公望 > 一揆の扇動は、直江の案がだったという説もありますよね>晴明殿
保科正之 > なんと、その商人の借用書を上杉家が買収し、執拗に返済を迫っていた、と言うのです。
安倍晴明 > 年貢米を全部ですか?保科殿、そりゃきつい
太公望 > ふむ
保科正之 > 財政に困った堀氏。何とか地元の商人などから米を借り受けて領国経営に当るわけですが…
安倍晴明 > おもったた→おもった です。すいません
浅野長矩 > ほう
保科正之 > ところが上杉家はその慣習を破り、年貢米を全て持ち去っていきました。
安倍晴明 > 一揆に悩まされ、上杉の扇動ではないかと思ったたそうですね
太公望 > ところが堀家ごときに、誇り高き上杉の領民だった越後の人々が従うわけもなし
保科正之 > 当時の慣習として、前領主は、後任の領主にそれまで蓄えていた年貢米を、一定量残すよう定められていたのです。
太公望 > そこで家康が「後は俺がするから、上杉さんは会津に行っておいでなさいな」と勧めた経緯もあったとか
浅野長矩 > 堀秀治は上杉が軍事力増強してるのにびびって、つぶさに状況を調べて家康の家臣、榊原康政に報告しましたね
保科正之 > 堀氏は上杉氏の会津転封をうけて、その旧領である越後・春日山城(上越市)に入ったわけですが…
安倍晴明 > 堀秀治が密偵を放って探ったとあります
太公望 > ところが会津に行く前に秀吉が死に、大老の一人として職務してるから会津に行くことも出来ない
安倍晴明 > いえ気にしないでください、私もまだこのタイプの歴史会は慣れないもので(^_^;)>保科殿
太公望 > あと上杉が旧領の越後から会津に移されたのが、秀吉が死ぬ直前だったそうですしね。
保科正之 > 内通者・堀秀治ともに仰るとおりです。で、面白いのは堀秀治の方。
保科正之 > いえいえ。結局行き着く所は一緒ですから。少し某のほうが、変に突っ込みすぎたかもしれません。 >幹事様
太公望 > 内通者が上杉家の中に居たらしいですよ>保科殿
浅野長矩 > 失礼、保科殿
浅野長矩 > 確か堀秀治が「ちくった」のではなかったでしょうか?(笑)>星などの
保科正之 > ちなみに、何故家康が、会津のような田舎藩の様相をつぶさに知る事が出来たのだと思いますか?
太公望 > ところがそれを家康は「豊臣家への謀反の準備をしている」と決め付けて、半ば強引に上杉征伐の軍を出した、と。
安倍晴明 > すいません、話が飛びました、申し訳ない>保科殿
浅野長矩 > そうですね。伊達や最上などと緊張関係にありましたからね<上杉軍事力増強
保科正之 > 少し話は前後しますが、家康の大阪城西の丸入城後、上杉景勝は領国・会津へ帰るわけですね。
安倍晴明 > 浪人をやとったり、城を修築したりですね
安倍晴明 > 新領国の仕置きに領国へ帰った上杉景勝は、軍事力の増強をします。
太公望 > こういう表現なら、任せてください(ダメなら言ってください)>皆さん
安倍晴明 > そういうことですね>太公望殿
保科正之 > で、問題の舞台は南奥州へ移るわけですね。
安倍晴明 > 太公望殿おもしろい表現ですが、まさにその通りです(^^
太公望 > どちらにせよ、家康に人質を出した第一号として、後の徳川政権下で異例の百万石を維持できたのですね。前田家は>晴明殿
浅野長矩 > ふむふむ
安倍晴明 > この件により以後前田家は家康の下に組み敷かれる事になります。
保科正之 > そうですね。 >前田討伐 >今日の、どこぞの国の外交と通じるものがありますね。(笑)
太公望 > 驚いた家康は「うっきー! 前田に一杯やられちまったぜ! 仕方ないから上杉、次はお前だー!!」とあっさり目標を転じた、と
安倍晴明 > そのとおりです>浅野殿(^^
太公望 > ところがその前に、利長の母親が、自ら家康に人質になりにいったおかげで、前田討伐は出来なくなった。
浅野長矩 > それに驚いた利長は家臣の横山長和を弁明に遣わし、母のまつを人質に送ってますね
安倍晴明 > まあ、気にしないでくださいね>浅野殿、あなたの方が私よりくわしいですから
浅野長矩 > そして、家康が前田利長討伐の軍を組織するんですよね
太公望 > ふむふむ
保科正之 > 先程も言った様に、暗殺を恐れたのか、家康は自分の息子の秀忠に、横死を避けさせるために江戸に返していますから。
安倍晴明 > まあ、これも一つの説ですから、単に虚報とは言い難い面もあるかもしれませんね
太公望 > 殿。で結構ですよ、保科殿^^/
保科正之 > ふむ、太公望様の仰る事が、一番真実に近かったり。(笑)
浅野長矩 > いえいえ、そんな大したことではありませんよ(笑)ただ疑問に思っただけです。すみませんでした。>安倍殿
安倍晴明 > これとは違う説をお持ちなのですか?>浅野殿。よければ聞かせてください
太公望 > すると三成側としては「へー? そっちがそんなデマ流すんだったら、本気でやっちゃうもんねー!」ってな感じで、本気の暗殺計画を実行したのでしょうかね?^^;
浅野長矩 > いや、それはわかってるんですが、ただ、家康側が故意に流した虚報と言い切れるのかなぁと思いまして…>安倍殿
保科正之 > 私はあったと思いますよ。 >暗殺計画自体は >ただ、五大老を討つ、様なことをすると、その後の事態収拾がかなり大変なものになったでしょうから。
安倍晴明 > この暗殺計画は家康側が故意に流した虚報であるとのことです>浅野殿
保科正之 > その説の疑問点として、何故か武功派(福島正則・加藤清正シンパ)である浅野長政が加わっているという…(笑)
安倍晴明 > 保科殿がいうとおり大義名分のためともいえます。何といっても五大老の一人ですから
浅野長矩 > 絶対なかった……のですか?<幻ってついてますけど
太公望 > 前田利長が暗殺の首謀者?? 初めて聞きましたよ…
保科正之 > 嫡男・秀忠が先に江戸城へ帰った事件ですね。 >幻の暗殺計画
安倍晴明 > もちろん、そんな事実はありません
太公望 > 亡き太閤秀吉から、秀頼の後見役を頼まれていましたから、家康の大阪入城は実に当然なのですけどね
安倍晴明 > 前田利長を首謀者として、浅野長政、大野治長らが、登城途中の家康を討とうとしていると
浅野長矩 > ふむ
保科正之 > やはり、「豊臣家のために戦をする」と言う大義名分のためにも、家康は大阪へ出向いたのでしょう。
安倍晴明 > そうですね>太公望殿
安倍晴明 > 浅野殿がいうとおり、大阪入城のその後「幻の暗殺計画」が発覚します。
太公望 > よって動員できる兵力は、家康が約六万に対して、三成は約五千………だから毛利・宇喜多の両大名を総大将に担ぎ出したのですね
浅野長矩 > 確か、三成が佐和山へ閉居させられたあと、家康が大坂に出向き、秀頼に謁見するんですよね
安倍晴明 > なかなかおくわしいですね>保科殿。確かにおっしゃるとおりですね
保科正之 > あと、同志で同じく五奉行の長束正家らも暗殺を狙っていますね。
保科正之 > 三成自身は戦場での決着を望んでいたようで、暗殺計画を積極的に主張したのは島左近清興らの家臣団ですね。 >家康暗殺計画
太公望 > 対する家康は関東二百四十二万石………すごいものだ^^;
安倍晴明 > そうですね>太公望殿
安倍晴明 > ようするに、家康は豊臣恩顧の大名同士の内紛をあおったほうが得策と考えたのでしょう。
太公望 > 三成は佐和山十九万石の大名でしたしね
安倍晴明 > しかし、三成は奉行職をとかれ、佐和山へ閉居させられます
安倍晴明 > そうですね>保科殿(^^
太公望 > その反面で三成も、三度も家康暗殺を試みているというのだから、大したものですね
保科正之 > 窮鳥入懐、美談ではそう定義されていますね。 >七将三成襲撃事件
安倍晴明 > いえいえかまいませんよ
安倍晴明 > 家康のねらいは三成ごときではなく、天下取りにあったといわれています。
太公望 > 話の腰を折って申し訳ない。先を続けてくださいませ、晴明殿
保科正之 > ふむ。結局のところ、武功派(福島正則・加藤清正ら)の文官派(石田三成・前田玄以ら)への嫉妬が積もりに積もったわけですね。
安倍晴明 > そのとおりですね>太公望殿
安倍晴明 > 事前に察知した三成は、何と伏見の徳川家康の邸宅へ逃げ込みます。
太公望 > それをあえて庇ったのが、家康。
安倍晴明 > いろんな理由はあったと思いますが、鬱積がつもりつもって「三成襲撃」が計画されます。
浅野長矩 > そうですね。太公望殿のおっしゃるとおりだと思います
太公望 > 三成=物の扱いは得意でも、者の扱いは駄目。というイメージがありますね
安倍晴明 > そういうのもあったかと思います>太公望殿
安倍晴明 > 三成の讒言により不当に低く評価されているのではないかとの疑念から
太公望 > 確かそうでしたね、晴明殿?
太公望 > 当時としては当たり前だった『借米に対する大商人からの割戻し』によって利益を得た三成たちに対して、福島ら武等派が怨みをもったと聞いています
安倍晴明 > まず朝鮮の役での軍功の評価から、福島ら武断派との対立があります
保科正之 > 厚かましい限りですが、お願いできれば幸いです。
太公望 > 福島、加藤らとの対立は、朝鮮の役が原因と聞いていますが…
保科正之 > そうです。前回は石田三成その人に焦点を絞っていたため、もう少し、客観的史実としての対立構造を流しておいた方が、読む側にとっても呑み込み易いでしょうから。
安倍晴明 > というと、福島、加藤らとの対立といきさつという事でしょうか?
安倍晴明 > いちおう、前回は石田三成の人物像を説明した訳です
保科正之 > 前回の、と言うよりは、挙兵前までのおおまかな人物対立構造とそのいきさつをさらっと流してみては、と言うことです。すみません。
太公望 > 慶長四年、七月十六日ですな?
保科正之 > まずは、前回の歴史会のおおまかな復習をお願いしたいのですが…
安倍晴明 > まず、どのへんからいきますか。上杉討伐に家康が向かい、三成が挙兵するあたりからでもよろしいですか?
安倍晴明 > では、よろしくお願いします。
小姓 > 安倍晴明殿、ようこそお越し下されました。
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