「三国志歴史会〜赤壁におけるロマンの無さ〜」by諸葛誕公休

参加者(4):諸葛誕公休明智光秀蒲生秀行河尻秀隆

諸葛誕公休 > 皆様、お疲れ様でした^^

諸葛誕公休 > 以上で今回の講義を終了したいと思います

蒲生秀行 > なるほど。有り難う御座います<追撃したのみ

諸葛誕公休 > 史実では単に追撃したとしか記述されていないようです

蒲生秀行 > やっぱり演義のオリジナルですか・・・

諸葛誕公休 > それは演義のお話ですね<華容道の追撃>蒲生殿

蒲生秀行 > あ、最後に・・・関羽が曹操を見逃した話は正史ではどうだったのですか?<追激戦

明智光秀 > ふむ

武田晴信 > ほぅ

河尻秀隆 > 待つことをしなかったのですね

蒲生秀行 > 急ぎ過ぎたのですね。

曹操孟徳 > なるほど<敗因の理由

諸葛誕公休 > 次に荊州を平定させたのに内政に努めず、すぐさま江東へ進撃したため降伏兵たちが心服せず、たいした戦力にならなかったこと・・・などがあげられると思います。

諸葛誕公休 > まず、一番の理由は運悪く疫病が兵たちに流行した事

諸葛誕公休 > 考えられる曹操の敗因としては

諸葛誕公休 > また、冒頭でお話した武帝紀(曹操)で赤壁のことがたった一行しかかかれてないのは、著者の陳寿が曹操を辱めないように赤壁における彼の大敗を伏せた、つまり省略して書かなかったと一般に考えられているようですね。

曹操孟徳 > そう言われるとそうですね<魏と呉の戦い

明智光秀 > ようは、呉と魏の戦いだったのね

諸葛誕公休 > 赤壁の見所である、味方でありながら周瑜と孔明の知恵比べなど、壮絶な知力戦はすべて演義の物語で実際にはなかったっていうんですから、ちょっとがっかりでした^^;

諸葛誕公休 > 孫権側もまったく自軍だけで赤壁を多戦い抜き、勝利しました。結局劉備軍を全然戦力として考えてなかったということです^^;

諸葛誕公休 > 史実では劉備軍は戦争が終わった後に、単に追い討ちをかけただけなんです・・・後片付けみたいなものですね

諸葛誕公休 > 最後にまとめみたいなものを少しお話しますね^^
諸葛誕公休 > 考えられる曹操の敗因としては

曹操孟徳 > なるほど<劉備もまぜて活躍させようとする

河尻秀隆 > 結局は局部戦程度ですか。<赤壁

明智光秀 > 三成みたいですな<半分使って

諸葛誕公休 > 演義では劉備軍を活躍させようと「赤壁大戦」に参加させて無理やり活躍させようとしたので、史実とだいぶ違った物語になってしまった感があります

諸葛誕公休 > ありがとうございます^^>光秀殿

明智光秀 > うむ。とても上手くまとまっていて分かりやすかったですねえ。

諸葛誕公休 > しかし、先ほども言いましたが、曹操には戦う気が無かったため、大損害にはいたらず、曹操軍の国力がそれほど減少した戦いではなかったようです<正史の赤壁>河尻殿

蒲生秀行 > だけって・・・当時の魯粛の財産のほぼ半分だよ煤i ̄□ ̄|||)

河尻秀隆 > 三千石だけなの?

蒲生秀行 > 周喩の為に3千石の米倉やっただけはありますな(爆)

明智光秀 > ほうほう

諸葛誕公休 > 赤壁の対戦で曹操の天下統一がくじかれたのはまちがいないでしょうね>河尻殿


諸葛誕公休 > 以上が正史及び演義での「赤壁の戦い」です。調査してみると知らなかった違いがけっこうありました


河尻秀隆 > ようは孫権に天下を取れといってるのですか?


諸葛誕公休 > こうして赤壁が終わると、次は再び荊州をめぐった争いが起こっていくわけですね


蒲生秀行 > 粋ですな(^^)


曹操孟徳 > かっこいい・・・<魯粛


諸葛誕公休 > 魯粛は「将軍が中国を統一してくださり、そのときに賢者を迎える儀礼で私をお召しくだされば、讃(たた)えていただいたといえるでしょう」といったので、孫権が手をたたいて笑ったといわれています


諸葛誕公休 > そして孫権が「これであなたの功績に報いただろうか」といったところ、魯粛は「不十分です」といったので周りの人たちはびっくりしました


諸葛誕公休 > 孫権は終始主戦派を貫き、劉備軍と同盟を成功させた魯粛に対して自ら馬を下りて出迎えました。臣下にとっては最高の礼をつくしたのです。孫権は赤壁の勝利がよほどうれしかったんでしょうね^^


諸葛誕公休 > 赤壁で大勝利を収めた将兵が凱旋したときのことです


諸葛誕公休 > さて、最後になりますが正史において勝利した孫権軍にこんな話があります


諸葛誕公休 > 確かに^^;冬に川に落ちたのですからね<よく生きてた>桂殿


桂小五郎 > 心臓麻痺で即昇天もありえますよね^^;<冬の川に落ちる


蒲生秀行 > まあ幾ら水練に長けていても、矢を受けて冬の川に落ちて助かる事自体が信じられませんが


明智光秀 > 悲惨だな()<便所


河尻秀隆 > 人数多いしね(>_<)


曹操孟徳 > 確かに^^;<正史の知られざる伝説


河尻秀隆 > やはり下まで行くと上のほうの顔も知らんはずだね(>_<)


諸葛誕公休 > 赤壁の功労者に実際こんな仕打ちがあったとは・・・おどろきですね(笑) 正史の知られざる伝説ですな ^^;


諸葛誕公休 > そして気づいた韓当のおかげで「九死に一生」を得たというわけです


曹操孟徳 > 便所!?何故便所なんだ^^;


蒲生秀行 > 酷い!!( ̄|||)<便所に放置


桂小五郎 > ^^;<便所放置


諸葛誕公休 > 捨てられてから、やっと気がついた黄蓋。こいつはやばいとかすかに聞こえた声を頼りに韓当の名を必死で呼び助けを求めました


諸葛誕公休 > そこで、救助した兵は「まあ、こんなに重症ならもう助からないだろう」と、なんと黄蓋を便所に捨ててしまいます(爆)


諸葛誕公休 > それを運良く味方の兵士が発見し救助したのですが、なにせ下っ端の兵卒で黄蓋の顔をしらないばかりか、総攻撃の忙しさに怪我人にかまってもいられません


蒲生秀行 > 諸葛亮の分析した通りだったのですね<魏軍たいした事無い


諸葛誕公休 > そうですねー。曹操はたいした計略ももたず大軍でゴリ押しして勝つつもりだったようですから^^;>河尻殿


諸葛誕公休 > 矢をうけて海におちてしまったようです<黄蓋


河尻秀隆 > よく考えてみれば無理押ししてきたのが祟ったようなものですか?


諸葛誕公休 > 船に火をつけた後、黄蓋は敵の反撃を受けて海に転落してしまいました。重症だったのか昏倒していたようです


諸葛誕公休 > ところで、「九死に一生」といえば、正史の赤壁での黄蓋は船に火をつけて海に飛び込んだ後、悲惨な目にあっていますね(笑)


蒲生秀行 > なるほど<戦意喪失


諸葛誕公休 > しかし、史実では赤壁で曹操陣営の将軍が誰一人死ななかったということですから、それほどの戦ではなかったと考察できます。曹操は全く攻める気もなく退却したのでしょうね


諸葛誕公休 > まあ、演義にあるように火計や劉備軍の追撃で何十万も兵士が殺害されていたら、将軍もたくさん殺されたと考えるのが妥当でしょう


諸葛誕公休 > 曹操が自ら船を焼いたのは孫権に戦利品として奪われることを恐れたからでしょう


諸葛誕公休 > そして、曹操はなんとこのとき残りの船に自ら火を放ち、退却しました。このとき退路に待ち構えていた劉備軍にさんざんに打ち負かされ、九死に一生を得たということです


桂小五郎 > 風土病・・・病気には勝てないですね・・・


諸葛誕公休 > 正史ではこのとき曹操軍は風土病に襲われており、士気も落ちまくっていました。したがってほとんど抵抗もできなかったようです


諸葛誕公休 > 曹操の軍船はすべて鎖でつながっていたのと、曹軍には予期せぬ東南の風のせいで瞬く間に次々に炎がひろがっていきます


諸葛誕公休 > 黄蓋の船の一団には柴、薪などに油を注いだものが山盛りされて、幕で隠していました。そして、曹操の陣営に2里(約150m)あまり近づいたところで、黄蓋の船団は自身の船に火をつけ曹軍の船団に突撃させました


諸葛誕公休 > いよいよクライマックスですが、火攻めと偽りの降伏、さらに東南の風というお膳立てが出てきたところで、周瑜と程普はそれぞれ1万の兵士を率いて、降伏武将黄蓋を先頭に出陣します


諸葛誕公休 > それは過去ログをごらんください^^>曹操殿


河尻秀隆 > ログを読もうぜぇ(*^.^*)>曹操殿


曹操孟徳 > ん?ということは孔明が舌先三寸で呉との同盟を成功させたのもフィクションですか!?


蒲生秀行 > 蜀贔屓の面目躍如と言ったところですな(笑)<演義


曹操孟徳 > なんと!では劉備と孫権をくっつけただけなんですね<孔明の赤壁における関係


明智光秀 > 良いように演義は書いているのですね。


諸葛誕公休 > 冒頭でもお話しましたが、正史の諸葛亮伝にほとんど赤壁について記載されてないのはこのためです<活躍してないから


諸葛誕公休 > それもそのはず、要するに孔明は何もしてないのですからね(笑)


蒲生秀行 > ふむふむ<孔明出て無い


諸葛誕公休 > 赤壁での正史と演義の違いはそんなところですね。さて、以上のことをお話しましたが、正史において赤壁に関して諸葛亮が全然でてきてないことに気づくと思います


諸葛誕公休 > 実際、諸葛亮は全く関係ないってことでしょうかね


蒲生秀行 > 曹操軍はたまったものじゃ無いですね(−−;)<たまたまで焼き尽くされる


諸葛誕公休 > NHKドラマでもそのように話していましたよね^^ しかし正史ではどこにもそんな記述はないのですよ>蒲生殿


蒲生秀行 > 地元に伝わる話だそうです<聞き込み


諸葛誕公休 > ただ、周瑜伝だけに「たまたま風が吹いて曹操の船を焼き尽くした」って書いてあるだけなのです


蒲生秀行 > 孔明が地道に地元の漁師に聞き込みをしていたとの話も聞いた事がありますが


諸葛誕公休 > なぜなら、正史の中では武帝紀、先主伝、呉主伝、諸葛亮伝など、風の話が全くないんですから・・・


桂小五郎 > 知っていた、の方が、説得力ありますね


諸葛誕公休 > 一説では火をつけたことで、気圧に変化が生じ、風が生まれて、東南の風が引き起こされたという説も・・・?うさんくさいですが


蒲生秀行 > 周喩が知っていたのですか( ̄||)また手柄横取られ・・・<季節風


諸葛誕公休 > 正史では、この時期に吹くはずのない風がたまたま吹いた(周瑜伝)とも、この季節の一時期だけ東南の季節風が吹くことを周瑜が知っていたとも言われています


蒲生秀行 > そうですね(笑)<人間業ではない


曹操孟徳 > あ、なるほど!!<そうでないと船をくっつけない


諸葛誕公休 > もはや人間業ではないですね(笑)<演義での諸葛亮


諸葛誕公休 > の、ようですね。でないと船をくっつけたりしませんものね^^<曹操も承知していた>がも殿


曹操孟徳 > はい^^<後々の話


曹操孟徳 > ということは西北ですね、これでは呉の船が燃えるんじゃないんですか?


諸葛誕公休 > 演義では、ここで諸葛亮が活躍します。祭壇をを設けて数日間祈り続けました。するとふくはずのない東南の風が吹いたんですよね


蒲生秀行 > その辺は曹操も充分承知だったみたいですね<逆風


諸葛誕公休 > 今からそれをお話しますね^^>曹操殿


諸葛誕公休 > 赤壁では東南どころか逆風がこの季節には吹いていたらしいです


曹操孟徳 > 「東南の風」は本当に(正史では)本当におきたんですか?


蒲生秀行 > 孔明マジック炸裂の時ですな(^^)<東南の風


諸葛誕公休 > さて、曹操軍を火計で攻める準備は整ったのですが、火計には火がまわって曹軍を燃やし尽くすように「東南の風」が必要でした


諸葛誕公休 > このような計略が双方で交錯し、戦争もいよいよ最終局面をむかえます


諸葛誕公休 > これなら、曹操も信じるだろうとおもうくらい演義ではよく作られた話になってます


諸葛誕公休 > 黄蓋の友人、カン沢を曹操軍に送り込んで降伏の書簡を直接渡すといったかなり綿密な計画ですね。これが演義における「苦肉の策」です


諸葛誕公休 > 黄蓋が周瑜と軍議中に論争をおこし、黄蓋は棒たたきの計を受け半死半生になりました。黄蓋はそれを恨みに思って曹操に寝返るという筋書きです。途中で甘寧も芝居に加わり、曹操の計略で前もって偽って呉軍に降伏していた間者の蔡和、蔡中を利用して黄蓋の寝返りは本当であることを報告させたり


諸葛誕公休 > 黄蓋の降伏をより確実に曹操に信じさせるために、周瑜と黄蓋が体を張った芝居をうちます


蒲生秀行 > そうですね。上手く曹操の裏をかいた形になってますよね<演義


諸葛誕公休 > 一方、演義ではまさに「苦肉の策」で、よくできたストーリーになってますね


曹操孟徳 > なるほど<信じた理由


諸葛誕公休 > こんな理由があったのではないでしょうか・・・真偽はともかくとして、わたしの考えを述べてみました^^;


諸葛誕公休 > A先の官渡の戦いで同じように降伏した許攸をもちいて大勝利していたため、疑いながらも信じてしまった


諸葛誕公休 > @曹操陣営には冬場の遠征の疲労と兵士に充満した疫病に悩まされていたため、なんとかして局面を打開したい焦りがあった


曹操孟徳 > 黄蓋が偽って降伏するのは実話なんですね。


蒲生秀行 > あらま・・疑心暗鬼の塊と言われた曹操の名が泣きますな(爆)<ころっと騙された


諸葛誕公休 > ちょっとおかしいですね^^;あの曹操がこのような一見バレバレの計略に引っかかるとは・・・何でいとも簡単にひっかかったのでしょうか。考えられる理由としてあげてみました


諸葛誕公休 > その下準備として黄蓋が「偽りの降伏」を曹操に持ちかけます。曹操はなんの疑いも無くころっとだまされたらしいです。


諸葛誕公休 > これは周瑜も同じ事を考えていたようで、黄蓋の進言が受け入れられます


諸葛誕公休 > そこに黄蓋が現れ、「曹操軍の船は船首と船尾がつながっているらしい。火をかけてやればたちまち燃え移るぞ」と火計を進言します


諸葛誕公休 > 長江をはさんでそれぞれ陣をしいたのですがお互いに動けず、膠着状態が続きました。周瑜はどうしたら曹操を打ち負かすことができるか日々頭を悩ませていたようです


諸葛誕公休 > 次に「黄蓋の苦肉の策」です。これも演義のフィクションですが、まず正史では、「苦肉」でもなんでもありません(笑)


曹操孟徳 > 失礼、孫権の話とごっちゃになってました^^;<藁人形


諸葛誕公休 > それはないとおもいますよ<元々・・・>曹操殿


蒲生秀行 > いや、藁人形を乗せたのは演義での孔明ですよ?>曹操殿


曹操孟徳 > 元々呉では船に藁人形を乗せるんですか?


諸葛誕公休 > 矢を集めるためではないですね。偵察と書いてありましたよ>曹操殿


黒田如水 > それは失礼いたしました>公休殿


曹操孟徳 > 元は孫権は偵察に出て曹操に矢を仕掛けられるんですか?本当は矢を集める為にでたんですか?


蒲生秀行 > なるほど・・・孫権の豪快な逸話を元に諸葛亮の手柄話に・・・流石蜀贔屓で名高い演義ですな(爆)


諸葛誕公休 > フィクションで実際にやったわけではないですから、できるかどうか聞かれてもわからないです・・・^^;>黒田殿


河尻秀隆 > 人の乗れないじゃんΣ´□


諸葛誕公休 > 船には矢を回収するために船じゅうにわら人形をのせていたようですよ>河尻殿


蒲生秀行 > 水漏れの心配は?( ̄|||)<両面に矢


諸葛誕公休 > 船戦になれた呉軍らしいエピソードですね


諸葛誕公休 > それをみて曹操が「息子というものは劉表の子のような犬でなくて孫権のような虎がほしいものだ」と嘆息したという話です


河尻秀隆 > そうなんでふかぁ。船や矢はどうやって回収したんですか?


黒田如水 > 第1に20隻に15本って刺さるものなのですか?


諸葛誕公休 > その日は霧(もしくは雨)が出ていたので、諸葛亮はどらなどで大軍に見せかけました。曹操軍からすれば、敵の数がわからなかったことから、矢を射掛けたとおもわれます>河尻殿


諸葛誕公休 > フィクションです>曹操殿


河尻秀隆 > マジΣ´□`<たかが20隻に14・5万本打ち掛ける


諸葛誕公休 > そこで、孫権は船を反対向きに旋回させ、反対側にも矢を受けて平衡を保ち、悠々と自陣に帰っていったということです


曹操孟徳 > ほう<元となる話


諸葛誕公休 > 赤壁の数年後、濡須口というところで孫権が曹操軍の陣を小船で視察したとき、気づいた曹軍が矢をいっせいに射かけ、船の側面に無数の矢を受けて、あわや沈没するくらい大きく傾いてしまいました


曹操孟徳 > その話は全くのフィクションなんですか?<矢


蒲生秀行 > 呉の将来の為とはいえセコいですね( ̄|||


諸葛誕公休 > この話は演義での創作ですが、実は元となる話があります。その話では矢の借主は孫権です


諸葛誕公休 > そのときの周瑜のくやしさが目に浮かびますね(笑)


諸葛誕公休 > しかし、期日の3日目に魯粛の協力を得て、小船20艘に大量の藁人形をならべて曹操の陣に向かい、曹操軍が射かけた矢をことごとく藁人形に収納して、まんまと14〜5万本の矢を調達してきたというわけです。


諸葛誕公休 > そして、できなければ軍令に沿って罰すると諸葛亮に誓わせ、大工に作業を遅らせるなど嫌がらせもやりまくってどうにかして諸葛亮を殺してやろうとたくらみます


諸葛誕公休 > 周瑜は「水上戦には矢が不可欠ですが陣中に不足していて、満足に戦えません。そこで10日間で10万本の矢を調達してもらえないでしょうか?」といったところ、諸葛亮は「戦は急を要します。3日で用意しましょう」といいます。


曹操孟徳 > なるほど<ホウ統


諸葛誕公休 > ホウ統は周瑜の客だったことと、荊州を占領した劉備の配下になったときに登場しています<正史>曹操殿


蒲生秀行 > これ余談ですけど、太平記で楠木正成も同じ策使ってました<矢を借る


曹操孟徳 > ほう。では正史にはホウ統はそういう形で出て来るんですか?


諸葛誕公休 > 「十万本の矢を借る」というのは、演義で周瑜が諸葛亮の才能に嫉妬し、これを亡き者にしようとたてた計略の一つですが、結果的に見破られています。演義における周瑜はいわゆる孔明の引き立て役になってますね


諸葛誕公休 > 次の「十万本の矢を借る」は、周瑜のちょっとピエロ的な側面が見えてくる逸話です


蒲生秀行 > 魏軍は水上の戦に慣れてなかったから思案の末の方法じゃないんですかね?ただホウ統の策じゃ無いって言うだけで<一般的


諸葛誕公休 > それについては記述されてなかったのですよ<計略でもないのにどうして繋げていたのか>曹操殿


諸葛誕公休 > いや、連環の計自体がなかったわけですから・・・<正史でも徐庶が・・・>姜維殿


曹操孟徳 > ほう、では船と船を繋げるのは案でもなんでもなくてその方法が一般的だったんですか?


諸葛誕公休 > 正史では連環の計というのはなかったということと、赤壁にホウ統は出てきてないということですよ>曹操殿


姜維伯約 > 正史でもそうなのですか?<徐庶が・・・


諸葛誕公休 > そうです。演義でそういう話もありましたね^^<徐庶が・・・>姜維殿


蒲生秀行 > まあ確かに揺れはおさまりますしね。「風向きの都合で火がかけられる事は絶対無い!」って言っていましたしね<曹操


曹操孟徳 > ん?関係してないとは?<ホウ統


諸葛誕公休 > 要するに実際は計略でもなんでもなかったようですね^^;<史実での連環の計


明智光秀 > まったくの、ほら話ではなかったのですね


諸葛誕公休 > っていうか関係してないようです^^;正史のホウ統法正伝をみると<ホウ統


諸葛誕公休 > これは、正史でも確かに船の船首と船尾をくっつけていたようです。ホウ統が関係しているかどうかわかりませんが、曹操軍が自ら船と船を繋いだと考えるのが妥当でしょうね。真偽の程は記載されていないので不明です


曹操孟徳 > それほどホウ統に惚れ込んでたんですね<曹操


姜維伯約 > 徐庶はそれを見抜くわけですか・・・


諸葛誕公休 > 臣下たちは曹操に「船が一つにつながると火をかけられたときに逃げ場が無い」ことを注意しましたが、曹操はホウ統の策を採択します。ホウ統はまんまと事前に周瑜との打ち合わせどおりに船を繋ぎ合わせることに成功したというわけです


明智光秀 > うむ。


曹操孟徳 > なるほど<連環の計


河尻秀隆 > 機動力が数段落ちるね()


蒲生秀行 > 蒋幹大活躍ですな(笑)


明智光秀 > ()<人材コレクター


諸葛誕公休 > ホウ統は「船と船をすべて錠でつなぎ、一つとすれば揺れは収まり、さながら陸のように移動できるでしょう」と献策します。これが「連環の計」です。


諸葛誕公休 > 曹操はさっそく陣営の不安要素として、部下の将兵が皆北方の民族で水上戦に不慣れなため、兵たちが船酔いしてしまうことをホウ統に相談します


河尻秀隆 > 正史も結構時間が経ってから書かれているから絶対正しいとはいえないけど演義よりは正しいと思う。


諸葛誕公休 > 曹操も人材コレクターとしてこれ以上ない人材を得、得意気分になったのは言うまでもありません。これで戦にも勝てるとも思ったのかもしれませんね^^


諸葛誕公休 > あるでしょうね・・・まちがい>姜維殿


諸葛誕公休 > 演義では、周瑜の計によってまんまとだまされた蒋幹は鳳雛とよばれる大軍師、ホウ統を味方に引き入れたと大手柄で曹操に報告しました<連環の計


姜維伯約 > 正史にも間違いは当然あるのですよね?


曹操孟徳 > 了解です^^>公休殿


河尻秀隆 > なるほど。


諸葛誕公休 > う〜ん。彼らについては未調査ですね^^;正史の隅々まで読んでないものですから<蔡瑁と張允>曹操殿


諸葛誕公休 > 少なくとも周瑜の計略によって殺されたわけではないようです。生きていたかどうかはわかりませんが>曹操殿


曹操孟徳 > 彼らはいつ頃死んだんですか?<蔡瑁と張允


明智光秀 > と言うことは、蔡瑁と張允は演義で都合よく殺されちゃうのですな


諸葛誕公休 > 続いて先程の「連環の計」ですが、演義では次のような流れになっています


姜維伯約 > 諸葛亮と周喩のやりとりは本当ですか?


曹操孟徳 > ん?ということは蔡瑁と張允は赤壁終了後も生きていたんですか?


諸葛誕公休 > これは演義での周瑜の計略ですから、正史ではそのような記述はありません>光秀殿


蒲生秀行 > 後の話は全部諸葛亮にやりこめられてますものね(^^;かませ犬の如く<一番カッコ良かった所


明智光秀 > 正史でも蔡瑁と張允は処刑されているのですか?


諸葛誕公休 > 以上が「蒋幹の訪問」です。このあたりが周瑜の一番かっこよかったところではないでしょうか^^


諸葛誕公休 > また、再度訪れた蒋幹を再び利用してそのとき周瑜の客だった智謀の軍師ホウ統を曹操に送りつけ、「連環の計」を成功させました。これについては後述します


諸葛誕公休 > 蒋幹は偽りだとは気づかず曹操に報告したため、まんまと二人を処刑させることができたのです


諸葛誕公休 > どんな内容かというと、周瑜は蒋幹との宴で痛飲し、酔いつぶれたふりをして蒋幹を自分の帷幕に連れて行きます。そこで曹操軍の水軍都督である蔡瑁と張允が呉に内通しているとの偽りの書簡をわざと蒋幹に盗ませました


諸葛誕公休 > 一方、演義ではこの逸話を脚色したもので、周瑜は曹操が放った間者である蒋幹を逆用しました。これは周瑜の智謀が発揮された参謀らしい計略ですね^^


諸葛誕公休 > まず正史ですが、蒋幹は周瑜の厚い忠義におおいに心服し、中原の人々にそれを賞賛したので皆周瑜を重んじたという記述が残っています。しかし、この話は赤壁の戦いの最中ではなく、その前後の話みたいです


諸葛誕公休 > ここまでが、正史と演義では一致するところですが、ここからが少し内容が異なります


姜維伯約 > 群英の会ですね


諸葛誕公休 > 蒋幹は私用旅行の振りをして孫権陣営の周瑜を訪れましたが、周瑜は蒋幹が曹操から派遣された遊説家であると見抜いていたようです。しかしそれを否定する蒋幹に自分の孫権への忠誠心は決して変わらないことを語ったということです


諸葛誕公休 > まず、「蒋幹の訪問」についてですが、曹操は孫権陣営の参謀である周瑜が年若くして有能であると聞き、周瑜と同郷の出身で弁舌に秀でていた蒋幹をやって味方になるよう説かせました


諸葛誕公休 > しかしまったく嘘というわけではありません。そこで、逸話の内容と史実との違いを一つ一つ簡単にお話しましょう


諸葛誕公休 > 例えば、三国志演義における逸話として、「蒋幹の訪問」、「ホウ統の連環の計」、「十万本の矢を借る」、「黄蓋の苦肉の策」、、「孔明、東南の風を呼ぶ」などがありますが、実はこれらはすべて正史には記載されていないフィクションばっかりなんです


諸葛誕公休 > 赤壁の戦いはここからが面白くなってきます。いわずとも、演義では諸葛亮と周瑜が大活躍した一番の見所ではないでしょうか^^


姜維伯約 > そうなんですか!なるほど<黄蓋と周瑜>


諸葛誕公休 > これについては正史ではほとんど記述されていないようなのですが、まず208年12月、周瑜と程普が出陣し、「赤壁」で小規模の戦闘がなされました。これで曹軍が孫権軍の水軍の強さにたまらず敗退しました。曹操は長江の北側に陣を敷き、孫権は南側に陣をしいて、その後、しばらく両者のにらみ合いが続きます


蒲生秀行 > それは苦肉の策なのでは?マジで仲悪かったんですか?<黄蓋と周喩仲が悪かった


諸葛誕公休 > ああ・・・それは演義での話でしょうね^^<黄蓋と周瑜が仲悪い>姜維殿


姜維伯約 > 私の読んだ本では黄蓋と周喩仲が悪かったとか・・


諸葛誕公休 > と、内輪の問題はあったようですが、なんとか軍隊も整い赤壁の最初の交戦が始まります


河尻秀隆 > やっぱり金が有る人間には最新の治療ができたんだね(>_<)<70まで現役


諸葛誕公休 > また、甘寧に親(凌操)を殺された凌統は甘寧と軍を別々にされているし、暴れん坊の甘寧にはお守り役として仲良しの呂蒙がついているみたいな(笑)


諸葛誕公休 > 3万しかなかったからしょうがないですね^^;>がも殿


諸葛誕公休 > 古参の程普と若者代表であるエリート周瑜はめちゃくちゃ仲がわるかったようで、喧嘩ばっかりで統率が取れず、戦争どころじゃなかったらしいです


諸葛誕公休 > このとき(赤壁)の孫権軍の人材配置が面白いんですよね


諸葛誕公休 > そうともいえませんよ^^いまの日本よりは低いでしょうが60〜70歳の現役武将はたくさんいましたし・・・孫権も71歳まで生きてたし>河尻殿


黒田如水 > ありがとうございます>公休殿


蒲生秀行 > ええ!カッコ悪い・・・( ̄|||)<5万くれっていったら3万しか・・・


諸葛誕公休 > そこで、周瑜は「5万の兵をもって曹軍をやっつけてみせます」といったところ孫権に「3万でやってこい(笑)」といわれ、都督に周瑜、程普を任命し「赤壁」へ赴いたということです


河尻秀隆 > しかし当時中国の平均寿命は低いのでは?


諸葛誕公休 > 文官や呉の昔からの豪族は降伏派でしたね>黒田殿


諸葛誕公休 > このように戦争に踏み切れたのも呉の陣営における人材は、当時孫権27歳、周瑜34歳、魯粛37歳などみんな若かったということで、若さゆえ大敵にも恐れない勇気があったといえるかもしれません


黒田如水 > 張昭の他にはこれと言っていないんですか?


姜維伯約 > なるほど・・


諸葛誕公休 > では、続きをはじめたいと思います


諸葛誕公休 > 別に信頼は失ってないと思います。政治に関しては張昭に任せてましたから>姜維殿


黒田如水 > そうですか>河尻殿<では拝見します


河尻秀隆 > ログを見ればわかります。<降伏派>黒田殿


蒲生秀行 > それは本題とあまり関係無いような気が致しますが・・・(^^;<赤壁後の張昭の信頼云々>姜維殿


諸葛誕公休 > 降伏派・・・といいますと?>黒田殿


黒田如水 > 演義だけじゃなかったんですね?>机を切る


姜維伯約 > 赤壁後に張昭が信頼を取り戻せたのはなぜでしょうか?


蒲生秀行 > なるほど。正史でも机切った訳ですか<孫権


黒田如水 > 逆に降伏派は?>公休殿


姜維伯約 > 降伏派と開戦派が拮抗していましたからねえ


諸葛誕公休 > 先ほども申しましたように呉の主戦派は魯粛でした。そして劉備との同盟を献策したのも魯粛ですから、その功績は大きいと思います>姜維殿


河尻秀隆 > やはり孫権にも憂いがあったんですな。


諸葛誕公休 > 切ったみたいですよ。「戦争に反対する奴はこの机のようになるぞ!」って>蒲生殿


姜維伯約 > 赤壁において開戦を決意させたのは魯粛の功も大きかったのではないでしょうか


蒲生秀行 > 机は切らなかったんですか?やはり・・・<孫権の決意


諸葛誕公休 > と・・・ここまでで何かご質問などはありますか?


諸葛誕公休 > そこで、勇気付けられた孫権は、先代までが築き上げたこの領地を守るため戦うことを決意します


諸葛誕公休 > 敵は曹操だけではないですからね。江東より南方に山越という盗賊もいたようですし、守備兵として残しておく必要がありますから<3万の兵力が限界>河尻殿


河尻秀隆 > そうなんですか。<戦闘参加3万


諸葛誕公休 > ああ・・・先ほど孫権軍5万といいましたが、戦闘に参加できるのは3万程度だったようです


諸葛誕公休 > そうですね かなり誇張していたと思われます>河尻殿


諸葛誕公休 > などを述べたようです。この分析力はすばらしいですね。曹操軍100万対孫権軍3万とはいえ、勝てそうな気がするのもわかるような気がします


河尻秀隆 > 実質4・5倍の兵力ですな。<曹操軍


諸葛誕公休 > D馬騰や韓遂など北西にある西涼の軍隊が曹操に心服していないため、後顧の憂いが断ち切れていないこと


諸葛誕公休 > C北国の兵は騎馬は強いが水上戦には不慣れである(南船北馬という言葉がある)


諸葛誕公休 > B遠来の兵で疲労がたまり病にかかるのが多いであろうということ


諸葛誕公休 > Aそのうち直属の兵は15万、残りは袁紹や劉表配下の兵で、まだ心服しているわけではないので兵力にはならないこと


諸葛誕公休 > @公称100万の兵力とはいえ、実質赤壁に集結しているのは20〜30万であること


蒲生秀行 > ありましたね<周喩怒らせた


諸葛誕公休 > 一方、史実では諸葛亮や周瑜が曹操軍の実質の兵力などを分析し、孫権軍に十分勝算がある事を伝えたようですね。記述では・・・


諸葛誕公休 > ここで、演義では諸葛亮が弁舌を振るって、張昭など降伏派を打ち負かし、さらに「絶世の美人といわれていた孫策の妻で孫権の嫂(あによめ)「大喬」、周瑜の妻「小喬」を曹操がほしがっている。江東に侵略してきたのはニ喬を手に入れるためだ」と偽って、孫権、周瑜の怒りをあおらせて戦争を決意させたとありますね


諸葛誕公休 > そこへ、諸葛亮が使者としてやってきて、孫権に曹操と戦うことを決意させるのです


諸葛誕公休 > 荊州では降伏した君主、劉[王宗]が殺されてるのに、孫権に降伏を勧める臣下というのもどうかと思いますが^^;


蒲生秀行 > やっぱ文官が多かったみたいですね<降伏派


諸葛誕公休 > 降伏派(消極論)は代々江東の土着豪族の支持をうけた保身者達の意見で、筆頭は張昭。主戦派(積極論)は後漢末の混乱をさけて呉にやってきた北方民族の支持をうけ、断固戦うと主張。その筆頭は周瑜および魯粛です


河尻秀隆 > ふむ。


諸葛誕公休 > そのころ、孫権陣営では、曹操軍があまりにも大軍なため、臣下の中にも「曹操に降伏すべきだ」という意見が多かったようです


蒲生秀行 > なるほど。情報は命ですからね<陣営に詳しい


諸葛誕公休 > 両者の利害が一致したということですね^^ そこで劉備は諸葛亮を使者として同盟を結ぶべく、孫権陣営に派遣しました


諸葛誕公休 > まず、劉備陣営としては曹軍に対抗できる勢力と同盟を組むことが唯一の生存の道であるとわかっていたこと、次に孫権陣営としては、劉備は何度も曹操と戦い、その陣営について詳しいことや、劉備を援助する事で、来るべき曹操との戦で背後を脅かす存在として必要だったということでしょう。


蒲生秀行 > 確かに不思議ですね。気になりますね<孫権から提案


諸葛誕公休 > 魯粛はそこで劉備と会談し、孫権側と結んで曹操にあたるべきであると説きました。なぜ、いまでは戦力にもならない劉備軍との同盟を孫権から提案したのでしょうか・・・


諸葛誕公休 > 確かに少なすぎますね^^;せっかく読んだのに情報なし(涙)<諸葛亮伝や武帝紀における赤壁の記述>蒲生殿


諸葛誕公休 > 魯粛の慰問は荊州にくる口実であると諸葛亮が見破ったという話になっています。


諸葛誕公休 > 演義では魯粛は劉表の慰問の使者となってますね。しかし、生前劉表が孫権の先主孫策の慰問に行ってないことから


明智光秀 > なんだか、わくわくするな!


蒲生秀行 > 少ないっ( ̄|||)<ほとんど一文


諸葛誕公休 > ・・・で、話を元に戻しますが、曹操軍が攻めてくると孫権は荊州の情勢をさぐるべく壊滅状態の劉備軍に魯粛を使者として派遣しました


河尻秀隆 > やはり演義はめちゃくちゃなんだ・・・


諸葛誕公休 > 以上のようにたったこれだけの記述しかないのです。それには理由があるようなのですが、それは話の順を追ってしたいと思います


諸葛誕公休 > それは後でお話します>田島殿


千利休 > 不思議ですね>記述なし


諸葛誕公休 > 例えば、「赤壁にて劉備と戦ったが打ち負けた」(武帝紀)、「曹操は赤壁で打ち負け、軍を率いて[β](ぎょう)に帰った」(諸葛亮伝)、「周瑜に従いて、曹操を烏林にて阻む」(甘寧伝)、という具合です。烏林とは地理的に赤壁のことです


田島金太郎 >  曹操軍には、武将の死者ほとんどいなかったんですか?


諸葛誕公休 > 演義ではメインの人物でしたからね。曹操や諸葛孔明は<びっくりした


蒲生秀行 > メインなのに( ̄|||)<諸葛亮伝の記述皆無


河尻秀隆 > 量が多いなΣ´□


蒲生秀行 > なるほど<正史は人物伝


諸葛誕公休 > ・・・で読んだのですが、びっくりしたのが武帝紀や諸葛亮伝で赤壁の記述がほとんどなかったことです


諸葛誕公休 > たとえば赤壁に関しては武帝紀(曹操)、先主伝(劉備)、諸葛亮伝、呉主伝(孫権)、黄蓋伝、周瑜伝などをよむことになります


明智光秀 > それは、大変な作業ですな<人物ごとに


諸葛誕公休 > そうです<演義は脚色だらけ>河尻殿


諸葛誕公休 > そのため、史実を探ろうと思えばそれにかかわった人物いくつか(っていうかすべて?)の列伝を読んで、統合しなければ全体がみえてこないのです。


蒲生秀行 > ほとんどオールスターですよね<演義赤壁の登場人物


河尻秀隆 > 演義では脚色の中心という事ですか?


諸葛誕公休 > なぜならば、陳寿の書いた三国志は人物ごとの列伝になっているのですが、その筆法というのは1つの出来事に関して、他の列伝と重複しないように何人かの列伝に分けて記述しているからなんです


諸葛誕公休 > はい^^>蒲生殿


蒲生秀行 > ついに来ましたねぇo(^^")o ワクワク!


諸葛誕公休 > まず赤壁の戦いとは三国志演義では様々な逸話が盛りだくさんで、登場人物も豪華、三国志を語るには避けられないほど有名な戦です。にもかかわらず、正史をみてみるとおどろくほど記述が少ないことに気がつきます


蒲生秀行 > そこで孫権が魏と戦うか否かの選択に迫られる訳ですな


諸葛誕公休 > 前置きが長くなりましたが、ここからが今回の歴史会のメインテーマ「赤壁の戦い」になります


明智光秀 > 桁が違うのね。中国って。<100マン


千利休 > ふむ


諸葛誕公休 > 対する孫権はたった5万でしたね。曹操は孫権に「降伏しなければ100万の大軍で攻める」といった圧力的な書状を送りつけ、長江南岸の「赤壁」まで進行してきます。ここで孫権軍と曹操軍がはじめて対峙するわけです


諸葛誕公休 > 曹操は劉備こそ取り逃がしたものの、壊滅状態まで追い詰めました。そして荊州で手に入れた水軍を先鋒に、連戦連勝の士気の高さを勢いとして休むことなく、そのまま孫権の統治する長江以南の江東へ公称100万と号する軍勢をもって向かってきました


蒲生秀行 > そっちの理由の方が大きそうですな<暗殺未遂がむかついた


諸葛誕公休 > 劉備軍はなんとか夏口まで到着し劉[王奇]と合流します。曹軍の追撃を逃げ切ったわけですね^^


諸葛誕公休 > この戦闘が張飛や趙雲が活躍した有名な「長坂の戦い」ですね。詳しい話は長くなるので省略しますが・・・


諸葛誕公休 > そうですね。というより以前に自分を暗殺しようとしたことも許せなかったのかもしれません<猛追撃したこと>蒲生殿


明智光秀 > なんと


諸葛誕公休 > 荊州や後の赤壁の舞台は中国の長江が舞台です。川といってもめちゃくちゃ広い河ですよ>河尻殿


蒲生秀行 > 雷にびびったくらいの演技では騙せなかったのですな(笑)<劉備という虎を野に放つことの事の重大さをわかっていた。


千利休 > そうですね


諸葛誕公休 > このとき、荊州の人々が劉備を慕って、ともに逃亡しその十数万にもなったといわれています。そのため行軍が大幅に遅れて長坂で曹軍に追いつかれ戦闘になってしまいます


河尻秀隆 > 水軍って、川の水軍だよね?

千利休 > かわいそう。

諸葛誕公休 > 一方、劉[王宗]がそんなにあっけなく降伏するとは思ってなかった劉備はあわてて軍勢を率いて江陵をめざしてにげました。そのときはもう曹操軍はすぐ近くの宛(えん)に来ていて、劉備軍を猛追撃したのですが、曹操は劉備に対する恨みと、劉備という虎を野に放つことの事の重大さをわかっていたのでしょうね。

蒲生秀行 > 曹操軍にとっては貴重な水軍でしたね

諸葛誕公休 > ちなみにせっかく降伏した劉[王宗]はかわいそうに殺されていますね

諸葛誕公休 > また荊州の水軍をもそのまま手に入れることができました。これがのちの赤壁の戦力として投入されたんですね。

明智光秀 > ふむ

諸葛誕公休 > その劉[王宗]は家臣たちが皆、降伏を進めたので進言にしたがって戦いもせずあっけなく荊州を譲ってしまいました。曹操は無血入城できたわけです。

諸葛誕公休 > 劉表には2人の子がいましたがその家督争いは荊州の豪族である蔡氏が介入し、蔡夫人の子である弟の劉[王宗]が継ぎ、兄の劉[王奇]は江夏太守として追い出されてしまいました

諸葛誕公休 > 8月、その劉表が、曹操が攻めてきた大事な時期に突如病死してしまいます

諸葛誕公休 > 劉表に向けた荊州への一度目の遠征は新野を守る劉備軍の徐庶と諸葛亮の2軍師にしてやられてしまいます。そこで曹操は公称80万という兵力で自ら攻めてきました

諸葛誕公休 > このとき劉備は劉表のもとに身を寄せていたので、曹操は自分の暗殺計画に荷担した劉備を討ち取りたいとも考えていたようです

諸葛誕公休 > 袁氏を滅ぼし、河北一帯を統一した後、208年(建安13年)6月に漢の丞相となり、7月には袁紹と同盟関係にあった劉表を討ち果たすべく南方へ軍をおこしました

諸葛誕公休 > 西暦200年、官渡の戦いで袁紹を破った曹操は続いて烏丸まで追撃し、残党袁氏兄弟を討ち果たしました

河尻秀隆 > はい。

千利休 > はい。

諸葛誕公休 > まず、赤壁の対戦がどのようないきさつで行われることになったのか・・・正史に基づいて追ってみることにします

諸葛誕公休 > 今回は正史メインなのでよく知られている三国志演義については詳しく言及しませんが、わからないことがあれば、その都度ご質問ください^^

諸葛誕公休 > そこで、演義での脚色が最も多いといわれる「赤壁の戦い」を題材として「正史三国志(史実)」ではどのように記述されているかをそのつど演義の話も盛り込んで比較してみました^^

諸葛誕公休 > 実際、演義と正史では内容にかなりの違いが見られ、お話としては2つの三国志という見方をしてもいいくらいです

諸葛誕公休 > 一方、晋の時代、陳寿の書いた歴史書としての「正史三国志」は内容が簡潔なため面白みにかけるため、あまり知られていないのが現状だとおもいます

蒲生秀行 > そうですね<演義の方が一般的

諸葛誕公休 > 「赤壁」というと、あまりにも基本的過ぎるかと思われるかもしれませんが、三国志は一般的に明の時代羅貫中の書いた「三国史演義(フィクション)」の話がよく知られていますね

諸葛誕公休 > 今回は三国志の最も有名な戦として知られる「赤壁の戦い」についてお話します

明智光秀 > お願いいたします

河尻秀隆 > お願いいたします

諸葛誕公休 > 歴史会は歴史会諸法度にのっとって行いますね。よろしくお願いします

足利義満 > 暫し、待つのじゃ!諸葛誕公休殿によって御題が「三国志歴史会〜赤壁におけるロマンの無さ〜」に変更されたぞ。

Copyright ©ゆいちゃっと+RJW(歴史時代ワールド) All rights reserved