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小姓 > 姜維伯約殿、またお越し下さいませ。
姜維伯約 > 蛇!
姜維伯約 > では私も移動です
小姓 > 岳飛鵬挙殿、またお越し下さいませ。
姜維伯約 > うむ・・今日は無理して参加したかいがあったなぁ
岳飛鵬挙 > 移動です。
東郷平八郎 > 皆様またです(^^)
岳飛鵬挙 > 勉強させていただきまいた。v(^o^)
小姓 > 暫し、お待ちを!東郷平八郎殿によって現在のお知らせが「近代史研究所主催第二回歴史会終了。ありがとうございました」に設定されましたぞ。
小姓 > 金刺尭存殿、またお越し下さいませ。
内藤虎次郎 > 長い間お付き合いいただきまして、お疲れ様でした。
金刺尭存 > よし、移動!
姜維伯約 > 本当に長い間御苦労様でした>所長殿&皆様
金刺尭存 > お疲れ様です。
小姓 > 河尻秀隆殿、またお越し下さいませ。
岳飛鵬挙 > お疲れでございました。>皆様。
河尻秀隆 > お疲れ^^
東郷平八郎 > 皆様、お疲れ様で御座いました
金刺尭存 > 皆様、色々とご教授いただきありがとうございました。
東郷平八郎 > 次回の歴史会は旅順攻撃あとの陸軍のお話しをしましょう
東郷平八郎 > 今回の歴史会はこれくらいでお開きにしましょう
東郷平八郎 > とりあえず、これが陸軍の前半の動きですね(^^)
岳飛鵬挙 > ふむ。
東郷平八郎 > まぁ、これで旅順要塞戦は辛くも日本の勝利におわりました。
姜維伯約 > ちなみに児玉源太郎の葬儀委員長は乃木将軍が執り行ったんですよね
内藤虎次郎 > 計算づくか・・・・・?
東郷平八郎 > 日露戦争後彼はもうそれはアイドル的な人気となったわけです(戦時中はあんなに批難してたのに)
金刺尭存 > おいしいところを…(汗 >乃木将軍
東郷平八郎 > このステッセル将軍との美談で日露戦争後彼は名将として神社までつくられます
金刺尭存 > もしかして、のちの奉天会戦での活躍により赦免とか・・・? >乃木将軍 (脱線失礼)
姜維伯約 > ひとたび旅順を落とし凱旋すれば軍神とあがめられ、二人の子(勝典、保典)を亡くした同情があつまりましたね<乃木将軍
岳飛鵬挙 > 半数が死傷。大苦戦ですね。
東郷平八郎 > その後のこれまた有名なステッセル将軍との水師館での面会。これで彼は国内で賞賛をうけます
姜維伯約 > 日本軍は旅順要塞攻撃に13万の兵力をつぎこみ、死傷者は5万9千人に及びました
金刺尭存 > ゑ、終わりよければ全てよしなのですか? >汚名
東郷平八郎 > そうじゃないんですよ<汚名を・・・
東郷平八郎 > まぁ、乃木についてはなんらかの形で皆さんとお話ししたいと思ってますので面白いエピソード満載で(笑)
金刺尭存 > で、汚名を一身に浴びる事になったのが乃木将軍と…(哀)
東郷平八郎 > そして使命を果たした児玉はただちに元の部隊に戻るわけです(かっくいい〜!)笑
岳飛鵬挙 > 無能・・・・・な日本軍。
金刺尭存 > 半年程の苦戦が、わずか半日で…(汗
東郷平八郎 > 占領した203高地から旅順は丸裸になり、まもなく旅順要塞も陥落しました
内藤虎次郎 > 今までの、苦労は、なんだったんだ・・・・・・・。
東郷平八郎 > そうして12時間にも及ぶ死闘の末。203高地はあっさり落ちてしまいます
岳飛鵬挙 > ひどい。>参謀達
金刺尭存 > ハリセンを持って…(違
東郷平八郎 > しかし、参謀達は児玉に一喝されやむなく作戦開始となります。
小姓 > 新田義貞殿、またお越し下さいませ。
新田義貞 > 少しの間でしたが、これで失礼します。
東郷平八郎 > この近代的な作戦に乃木の参謀達は猛反発!「そりゃおかしい!突っ込まなくては!」
姜維伯約 > 親友の仲だから穏便に指揮権を取り上げれたんですよね
東郷平八郎 > ご名答です(^^)<児玉は長州
東郷平八郎 > そして東京から持ってきた28サンチ砲で砲撃して敵の反撃を封じつつ総攻撃をかけることになります
金刺尭存 > あっさり指揮権を譲与したところから見るに、乃木将軍を始め、旅順攻撃軍参謀ではろくな案も出なかったと見てよいのでしょうね。
岳飛鵬挙 > ふむ。
河尻秀隆 > 児玉は長州かな・・・
東郷平八郎 > で、彼は203高地に攻撃の主力を集中
姜維伯約 > そうですな<伊地知は薩摩、乃木は長州
金刺尭存 > かの大山巌をして、平身低頭にさせたという第二の「今信玄」ですね。 >児玉参謀長
東郷平八郎 > これって凄く横暴で軍規にも違反しているんですがそれが通るということは日本軍もそれだけ切羽つまっていたわけです
東郷平八郎 > 彼は旅順につくやいなや乃木と面会。そして第三軍の指揮権を「預かります」
河尻秀隆 > 伊地知は名前から推察するに薩摩・乃木は長州ですな・・・
東郷平八郎 > 彼は「旅順が落ちなければ国が滅びる」と思い持ち場を離れて旅順に向かいました
岳飛鵬挙 > 派閥人事・・・政治には必要ですけごねぇ・・・。
東郷平八郎 > その救世主こそ児玉源太郎参謀総長ですね
金刺尭存 > いや、納得されても…(汗
東郷平八郎 > 派閥人事でしょうねぇ<そのような自分が高官に(乃木も派閥人事で第三軍の司令官になったわけですし)
内藤虎次郎 > だからいいのか。納得>金刺殿
河尻秀隆 > 別に数の半数が偶数じゃないか・・・(笑)
東郷平八郎 > もうこんな人たちには任せられない・・そこで救世主が現れます
金刺尭存 > でも、26を割ったら13で、西洋思想では悪日になるのでは…(汗
姜維伯約 > 確かに意味不明だ・・<二十六日は偶数で割り切れるから要塞も割れる
岳飛鵬挙 > 何故そのような人物が高官の位にあったのでしょう?
内藤虎次郎 > まじっすか〜
東郷平八郎 > この意味不明な言葉。伊地知参謀長はマジで答えたそうでs
岳飛鵬挙 > ・・・・・・・ひどい。
金刺尭存 > おつむ…026…(違
内藤虎次郎 > ・・・・・・・・どういえばいいのやら。
内藤虎次郎 > あっ、そっか。
東郷平八郎 > 「26は偶数で割り切れるから要塞も割れる!」by伊地知参謀長
河尻秀隆 > 物資が補給される日だったとか・・・
岳飛鵬挙 > げんを担いだ・・・のですか?
金刺尭存 > もう幾つ寝ると、クリスマスかなって…(違
東郷平八郎 > ちょっと笑い話なのですが26日は南山攻撃が成功した日ということとそれともう一つ。これは伊地知参謀長のおつむの中を物語っています
河尻秀隆 > 給料日の次の日だから・・・(まて)
姜維伯約 > ふむ、何故でしょうか?
東郷平八郎 > 非難×→批難
東郷平八郎 > 更迭も考えられていたそうです<第三軍の非難
内藤虎次郎 > 自分の誕生日とか・・・・・・(おぃ
金刺尭存 > う〜ん、全く想像もつきません >26日に攻撃
姜維伯約 > 第一次、第二次総攻撃の失敗で、大三軍に対する風当たりは大本営はもとより国民の間でも強まっていたそうです
東郷平八郎 > ちょっと余談なんですが乃木軍は毎月きっちり26日に攻撃したんですけどその理由ご存知でしょうか?
東郷平八郎 > その伊地知参謀長のおつむが凄いものでして・・・
姜維伯約 > 大三軍参謀は正面攻撃に固執、第二次攻撃に203高地を目的の一つとしたが主力をまわさなかった。この為、かえって旅順要塞の弱点をロシア軍に気付かせる結果となり、203高地の防衛は強化されたといいます
金刺尭存 > 司令官→参謀長の誤りです。(謝
内藤虎次郎 > という事は、乃木第三軍の攻撃は、重視されていなかったのですか?>伯約殿
金刺尭存 > 伊地知司令官は「海軍の干渉は受けぬ」とまで言って203高地の重要性を認めようとしなかったそうですね。(余談)
姜維伯約 > 総参謀長児島源太郎が視察に訪れ、旅順港を砲撃できる203高地攻撃を優先するように進言、巨砲による砲撃強化を狙ったが、ロシア軍南下の報(沙河会戦)に児島は戻る
東郷平八郎 > そうこう失敗ばかりしているうちに死傷者は56000人を超えてしまいました
東郷平八郎 > そして第三回(第四回)の突撃では白襷隊という3000人の決死隊を編成してまで攻めますがこれも失敗
内藤虎次郎 > いや、行なってますよ。>坑道作戦
東郷平八郎 > しかし、時すでに遅し。もうそい乃木の参謀達が思ったころには203高地はロシア側も万全を固めていました
姜維伯約 > あれ?行いませんでしたっけ?<旅順要塞に坑道作戦
金刺尭存 > そうなのですか。 >よく使用 φ(.. )めもめも
東郷平八郎 > まぁ、しかし乃木の参謀達も203高地の重要性を認め攻めることになりました
小姓 > 清水宗治殿、またお越し下さいませ。
小姓 > 清水宗治殿、ようこそお越し下されました。
小姓 > 清水宗治殿、またお越し下さいませ。
清水宗治 > 失礼します
内藤虎次郎 > いや、要塞攻撃では、よく使用されますよ。>坑道戦術。
清水宗治 > ごめなさい、落ちます
東郷平八郎 > 乃木の参謀達は最初203高地の重要性を認めてなかったですからねぇ
金刺尭存 > 坑道作戦…戦国時代の武田信玄じゃあるまいし…(汗
姜維伯約 > 旅順要塞に坑道作戦も行いますよね
金刺尭存 > しかしながら、203高地を攻撃すべしと言う海軍案を拒否した乃木将軍に別の打開策はあったのでしょうか?
姜維伯約 > 漢民族は清国への忠誠はかなり低いと言うよりも敵対意識さえあったと思います(脱線失礼)
東郷平八郎 > これと前後して海軍からは乃木に「203高地を攻撃しろ!」と言われたり東京からは「28サンチ砲を送ってやるから」とか色々言われます
姜維伯約 > 乃木将軍は旅順戦で二児を失いますね
東郷平八郎 > この突撃で死傷者約5000人が出ます
金刺尭存 > もともと、漢民族に対する清国(他民族)への忠誠があったかどうかですね。(脱線失礼)
東郷平八郎 > しかし、第三軍は戦法を変えようとせず二回目の突撃をします
内藤虎次郎 > というより、もともとやる気がなかったような気が・・・・・・(清国軍)
東郷平八郎 > この第一回目の突撃では死傷者約15000人となり、しかも要塞に傷一つつけられないという悲惨な結果になりました
内藤虎次郎 > その辺で、油断があったのでしょうね>乃木将軍
金刺尭存 > 清国軍の軍団士気の低下によるもの、と考えられていますね >日清戦争における旅順での勝利
東郷平八郎 > 乃木は確か第一旅団を率いて日清戦争のとき旅順要塞を一日で落していたと思いますよ
金刺尭存 > 偵察もろくにしないで突撃をかけた、とものの本にありますが、それは本当なのでしょうか?
内藤虎次郎 > 乃木将軍は、日清戦争でも、旅順を攻撃した経験がありましたっけ?
東郷平八郎 > 乃木将軍はこの要塞を日清戦争の旅順要塞と同じように銃剣突撃をかけます
東郷平八郎 > 乃木将軍の目標、旅順要塞は分厚いコンクリートと機関銃が完全装備された強固な要塞でした
東郷平八郎 > この戦いは日本軍が戦死者を約15400人を出すという激戦となります
内藤虎次郎 > そして、いよいよ、旅順要塞の攻防が始まるわけですね。
内藤虎次郎 > それで、南山要塞を占領した後に、乃木将軍の第3軍が遼東半島に上陸します。
姜維伯約 > ちなみに南山にロシアが設けた鉄条網の長さは千メートル(約十町)でその幅は三・四十メートル(約二十間)です
内藤虎次郎 > このような傾向は、第一次大戦中まで続きますね。
金刺尭存 > ははぁ、陸海軍が協力していたのですか…(もののHPを見ながら)
東郷平八郎 > 機関銃を本格的に使用した戦闘ですね
内藤虎次郎 > 対するロシア軍は、700人ほどだったといいます。
内藤虎次郎 > そうなんですよ。日本軍が始めて、近代的な陣地戦を経験したときの損害です。
内藤虎次郎 > 南山要塞は、遼東半島の付け根にある要塞ですね。
姜維伯約 > 南山の戦いで死傷者は四千三百八十七人。大本営にとっては一桁違うと思わせる損害でしたね
内藤虎次郎 > このときの指揮官は、黒木将軍でした。
東郷平八郎 > いきなり203高地には話しはいかないのですね(笑)失礼。
金刺尭存 > 南山要塞攻略の話は全くわかりませんので、出来たらご教授願えますか?
内藤虎次郎 > その前に、旅順の手前の南山の要塞を攻撃しますよ。
姜維伯約 > 鉄条網や機関銃に苦戦するんですよね
東郷平八郎 > そして乃木将軍が出てくるわけです
新田義貞 > >旅順艦隊
新田義貞 > 何度か誘い出し作戦も行われたようですがこれも失敗。日本海軍は焦る焦る(笑)
金刺尭存 > 主敗、というのは戦艦2席を損傷させ、巡洋艦一隻を座礁、露の全艦を港内に封入できたためですね。
内藤虎次郎 > じゃあ、陸から攻撃しようということで、旅順の要塞攻撃作戦を開始します。
新田義貞 > 港を封鎖できないから、連合艦隊にとってロシア旅順艦隊はバルチック艦隊を迎え撃つ前にどうしても叩いておきたい相手でした。
小姓 > 真田幸隆殿、またお越し下さいませ。
真田幸隆 > ではでは
真田幸隆 > すこししかいられませんでしたが、そろそろおちます
内藤虎次郎 > 海からでは、旅順を無力化できない・・・・・・
内藤虎次郎 > で、結局、この作戦は、主敗します。
新田義貞 > 3度ぐらい行われましたがことごとく失敗しましたね>旅順港閉塞作戦
内藤虎次郎 > この際に、広瀬中佐の話等がでてきますが、これは後日のネタになります。
東郷平八郎 > それが旅順閉塞作戦ですね
姜維伯約 > 成る程
内藤虎次郎 > 最初は、日本軍は、船を沈めて、旅順の軍港としての機能を奪おうとしたわけですね。
新田義貞 > 第3軍が旅順を攻撃した最大の理由は要塞ではなく港にある訳ですね
東郷平八郎 > なるほど
内藤虎次郎 > そうですね。新田殿。
真田幸隆 > 旅順地区攻略終了後はどうなったのですか?
新田義貞 > 逆にいえば補給さえ絶てば日干しに出来る・・・態々攻略する必要は薄かったですね。陸軍にとっては>旅順
内藤虎次郎 > で、旅順地区には、半島の先っぽ付近の旅順の要塞と、半島の付け根のところに、南山という小規模な要塞がありました。
東郷平八郎 > それは両軍躍起になって守り攻めるわけです
姜維伯約 > そうですね<補給さえ確保できれば、かなり強力な要塞になる
内藤虎次郎 > 補給さえ確保できれば、半島の先とは、かなり強力な要塞になりますね。
真田幸隆 > 1996年7月10日に、部分的に対外開放したそうです<旅順要塞
内藤虎次郎 > そうですね。しかも、旅順は、半島の先っぽにありますね。
東郷平八郎 > その象徴的な都市の防備を薄くするわけはないですね。それに戦略上でも重要な場所ですし
真田幸隆 > Web Site Address!!←現在の旅順要塞だそうです。
新田義貞 > 遅くなりました。
小姓 > 新田義貞殿、ようこそお越し下されました。
内藤虎次郎 > イギリスのおける「香港」、ドイツにおける「青島」のようなものですね。
真田幸隆 > 遼東半島は下関条約で返還が決まっていたけど、ロシア、フランス、ドイツがそこの返還を求めたという事ですね<三国干渉
内藤虎次郎 > この当時の列強は、各地にそのような都市を作ろうとしていましたからね。
東郷平八郎 > 確かに<シンボル
姜維伯約 > 成る程<中国進出のシンボル都市
岳飛鵬挙 > ふむふむφ(.. )めもめも
内藤虎次郎 > そうです。>河尻殿
内藤虎次郎 > まあ、いうなれば、旅順の立場は、ロシアの中国進出のシンボル都市といってもいいでしょうね。
金刺尭存 > 恐らくその理由は、韓国政府を事実上、完全掌握する事が必要であったためと考えられます。(脱線失礼)>仁川
河尻秀隆 > 下関条約で一旦は割譲が決まったんですよね?
岳飛鵬挙 > なるほど。政治的駆け引きの背景があったわけですね。
東郷平八郎 > ふむ
真田幸隆 > なるほど<三国干渉
内藤虎次郎 > その後、旅順は、ロシアが租借しました。
内藤虎次郎 > これを阻止したのが、ロシアを中心とする、「三国干渉」でしたね。
金刺尭存 > 仁川は、宣戦布告前に旅順とともに奇襲を仕掛けているところから見ると、その通りですね。 >重要
姜維伯約 > ちなみにロシアはウラジオストックの防衛も強化する為に五万の軍を置いてますね
内藤虎次郎 > それを、日清戦争当時に、日本に割譲すると言う話がでまして・・・・・。
内藤虎次郎 > もともと、旅順とは、中国(清)の領土だったわけです。
金刺尭存 > 大半、皆様のおっしゃった事と被りました (謝
金刺尭存 > (本によると)旅順要塞があるために、日本は黄海における制海権を握れなかった。そのため、陸海両軍とも黄海の制圧とそれに伴う旅順の陥落に躍起になった、とあります。
真田幸隆 > 韓国の仁川港も重要だとも聞きました<日本軍の海路補給
岳飛鵬挙 > ほうほう。というと?>ロシア皇帝の権威
東郷平八郎 > 良い例えです(^^)<東洋におけるスターリングラード
内藤虎次郎 > 制海権をほぼ、確保する事が出来ますから。
姜維伯約 > そうですね<旅順の重要さ
内藤虎次郎 > 東洋における、「スターリングラード」のようなものですね。
真田幸隆 > 要は旅順陥落すれば、海路補給が容易になるということですね?
内藤虎次郎 > 政治的には、旅順という都市は、ロシア皇帝の東洋における権威の象徴的意味合いがありました。
東郷平八郎 > だから日本は必死に旅順を落そうといきり立ちましたね
岳飛鵬挙 > つまり、軍事上の要衝であったというわけですね。
内藤虎次郎 > 逆に、旅順を無力化すれば、軍事的には、補給路の確保が容易になる。
金刺尭存 > あと、旅順を抑えておけば日本側の補給路確保も難しくなるため、ともものの本には書かれておりました。 >旅順
東郷平八郎 > ふむ
姜維伯約 > 成る程<不凍港をなんとしても守る為
内藤虎次郎 > そうですね。先ほども言いましたが、現在の遼寧省を中心とする地域です。
金刺尭存 > 念願であった、不凍港をなんとしても守るためでは無いでしょうか? >旅順強化の理由
真田幸隆 > なるほど、陸戦の舞台はほとんどあ中国領内だったのですね。<旅順要塞
姜維伯約 > ちなみにこれは36年の10月3日に東京朝日が報じています<旅順要塞を強化
内藤虎次郎 > 旅順の要塞化は、何故進められたのでしょうか?
東郷平八郎 > そうです強固なものとなってましたね<旅順要塞
内藤虎次郎 > そうですね。>伯約殿
真田幸隆 > はい、了解しました
姜維伯約 > <要塞戦
姜維伯約 > ロシアは開戦前から旅順要塞を強化してますからね(径6インチ、長さ3サージンの大砲十二門を同地に輸送し、八門を湾口なる饅頭山の新砲台に据付、四門を停車場の北方である案子山に装置する等)
岳飛鵬挙 > ふむふむ(勉強)φ(.. )めもめも
内藤虎次郎 > 野戦では、日本軍がヨーロッパの軍隊(ロシア軍)を撃破していますから。
東郷平八郎 > 海軍のお話しは陸軍の話しが終わったあとの歴史会でお話ししますので(^^)>真田殿
東郷平八郎 > 近代史の戦争は第一次世界大戦で本当にドラマティックに進化しますからね。このころはまだ発展途上というところでしょうか(^^)>岳飛殿
真田幸隆 > そういえば、日露戦争当時の海軍戦力は?
内藤虎次郎 > 戦争レベルの差は、少ないでしょうね。>この当時
岳飛鵬挙 > そうなんですか!?(新発見)。ありがとうございます平八郎殿
小姓 > 豊臣秀長殿、またお越し下さいませ。
豊臣秀長 > すみません、途中ですが都合により失礼します;
内藤虎次郎 > まあ、私は、その前の、南山の要塞戦の方を重視していますが。
東郷平八郎 > ふぅむ、このころは戦車もありませんし飛行機もなかったですからそこまでの差はないと思います>岳飛殿
真田幸隆 > シベリア鉄道ですね。軍事輸送でも使用されていたというのは聞いたことあります
東郷平八郎 > その戦死者を多く出した要塞戦こそ203高地ですね
岳飛鵬挙 > 余談なのですがそれではこの時期他の列強国はどうだったのでしょうか?>戦争レヴェル
内藤虎次郎 > 例えば、ロシア軍による鉄道補給、要塞戦における戦死者の増大などがあげられると思われます。
真田幸隆 > 近代戦の第一歩が日露戦争か・・・
岳飛鵬挙 > ほう>近代戦のはしり
金刺尭存 > 雰囲気破壊、失礼しました (謝
内藤虎次郎 > ですが、この時代は、近代戦のハシリのような現象も、いくつか確認できます。
真田幸隆 > ふむふむ・・・
金刺尭存 > >日本軍
金刺尭存 > で、その大変な移動を経て第一軍が満州境の義州に到達したのが3月下旬になるわけですね。
東郷平八郎 > ということで、情報の伝達の技術も補給の技術も低く辛いものがありました
小姓 > 真田幸隆殿、ようこそお越し下されました。
内藤虎次郎 > ナポレオン戦争の時代から、近代戦への過渡期の時代の戦争なのですよ。>日露戦争。
金刺尭存 > そうですね。新兵器も数々登場したようですが…水冷式だったり…。
岳飛鵬挙 > ふむふむ。φ(.. )めもめも
姜維伯約 > 余談ですが兵の移動は水の補給が大変だったらしいです、中には泥水で炊事をする事もあったらしいですから(脱線失礼)
東郷平八郎 > あら、微妙にかぶりました。失礼>副所長
姜維伯約 > そうですねぇ<特色
東郷平八郎 > 第一次世界大戦ぐらいから「近代戦だなぁ」って感じますよ。このころはまだそう感じませんね(^^)>岳飛殿
内藤虎次郎 > 近代戦のようであって、近代戦ではない時代なのですよ。
岳飛鵬挙 > というと?
内藤虎次郎 > 日露戦争の特色は、そこなんですよ。>鵬挙殿
岳飛鵬挙 > なるほど。・・・近代戦とはおもえませんねぇ
金刺尭存 > そうですね。襲撃されたら元も子もないですし。(脱線失礼)
内藤虎次郎 > メインは、伝令だと思います。
内藤虎次郎 > 連絡部隊を作ったにしても、交通の便が悪いですからね。
岳飛鵬挙 > では、当時の主な連絡手段は何だったのでしょう
金刺尭存 > 連絡部隊なるものは作らなかったのですか?
内藤虎次郎 > 電話は、線を引かなければ使えないですし。
内藤虎次郎 > 無線の届く範囲は、限られてますからね。
内藤虎次郎 > 満州は、広いですよ。
東郷平八郎 > ふむ
金刺尭存 > 陸軍は、海軍のように無線を完備できなかったのでしょうか?
内藤虎次郎 > 日露戦争が始まってすぐの時には、ロシア軍の部隊の中には、連絡をとるのに、2〜3日かかるような場所にいた部隊もあったようです。
姜維伯約 > そうですね
東郷平八郎 > そうですね
内藤虎次郎 > 部隊の集中が思うように出来なかった時代の話ですね。
内藤虎次郎 > まあ、この時代の戦闘の特徴は、短期間の激戦と、長い期間の補給、部隊の移動が中心でした。
金刺尭存 > 少し、先取りしてしまった部分はありますが(謝)…地図だけでも参考にしてください。
東郷平八郎 > あぁ、すいません脱線してしまいました。話しを元に戻しましょう(汗)
内藤虎次郎 > たしか、リガだったと思いますよ。>バルト海の。
東郷平八郎 > バルト海というの憶えてるんですが
金刺尭存 > Web Site Address!! ←参考になれば幸いです。
河尻秀隆 > 極東じゃん(汗)<ウラジオストック
東郷平八郎 > あれ?勘違いしてますね。僕(恥)<どこから出撃でしたっけ?(
内藤虎次郎 > ウラジオストックは、新潟の向かいですよ。>元帥殿
姜維伯約 > そうですね<船での補給は難しい
東郷平八郎 > ロシアは船での補給は難しいでしょう。だからバルチック艦隊はウラジオストックという遠い地から出撃したわけですし
金刺尭存 > 船舶補給にしても、冬は港が凍る事が多いので出来ないですからね…鉄道しかないのも頷けます。 >ロシア
内藤虎次郎 > ロシアという国は、現在もそうですが、メインの工場等は、ヨーロッパの方に集中していますね。
東郷平八郎 > 当時そんな現状だったようですね<シベリア鉄道。
東郷平八郎 > ふむ
内藤虎次郎 > そのシベリア鉄道も、全通していない部分があり、しかも単線だったのですよ。
豊臣秀長 > ふむふむ<両軍の輸送
姜維伯約 > そうなりますね<メインの補給はシベリア鉄道を使用しての輸送のみ
内藤虎次郎 > 日本軍は、船舶を使用した海上輸送が中心になるはずですね。
内藤虎次郎 > という事は、ロシア軍のメインの補給は、シベリア鉄道を使用しての輸送のみ。
東郷平八郎 > そうですね
姜維伯約 > ふむ
内藤虎次郎 > この当時は、まだ、トラック等の自動車は採用されていませんでしたね。
東郷平八郎 > 確かに
金刺尭存 > なるほど…。
内藤虎次郎 > この当時における、交通線の状況は、ハルピン、奉天、旅順を結ぶ、シベリア鉄道の支線といくつかの道路のみでした。
東郷平八郎 > ふむ
姜維伯約 > そうですね<冬はかなり寒かった
岳飛鵬挙 > かなり住みにくい気候ですね。
内藤虎次郎 > このエリアの、気候的な特徴は、夏は、高温多湿、冬は、かなり寒かったようです。
東郷平八郎 > はい
内藤虎次郎 > 満州地区といえば、現在の中国の行政区分では、遼寧省と、一部、内モンゴルの自治区にかかるエリアです。
金刺尭存 > ご教授、お願い申し上げます。 >副所長様
東郷平八郎 > ご説明していただけますか>副所長
金刺尭存 > 明石元二郎大佐…ロシア革命の功労者ですね…。
内藤虎次郎 > 日露戦争における主戦場となった満州エリアは、どのような状態だったのでしょうか。
東郷平八郎 > 地理的なこと?
小姓 > 豊臣秀長殿、ようこそお越し下されました。
内藤虎次郎 > で、みなさんは、地理的なことはご存知ですか?
内藤虎次郎 > 明石大佐による反体制派に対する扇動とうまくいってたようです。
姜維伯約 > 日本のマスコミも満州と露西亜の情勢は開戦の情勢は大分前から大々的に報じてますから<情報
東郷平八郎 > アメリカとイギリスのメディアはロシアの軍隊(国民)の士気にも影響しましから
内藤虎次郎 > そうですね。>情報面では、明らかに、日本の勝利でしたよ。
金刺尭存 > となると、情報戦では既に日本側の大勝と考えても良いわけですね。
内藤虎次郎 > つまり、今回の時間に対する枠組みは、1904年(明治37年)2月〜1905年(明治38年)1月初めまでを扱いますね。
岳飛鵬挙 > なるほどφ(.. )めもめも
東郷平八郎 > 日本は世界の情報を握るメディアがバックにあったわけです
金刺尭存 > 時間との戦い…確かにそうですね。
小姓 > 姜維伯約殿、ようこそお越し下されました。
金刺尭存 > 日本側…なるほど、そういうことなのですか。ありがとうございます。φ(.. )めもめも
清水宗治 > 日本のねらいは対馬、津軽、宗谷などの三海峡で秋山真之は対馬を望んでいたようです
東郷平八郎 > それは、第一回の歴史会ログをご覧くださいませ(^^)>岳飛殿
東郷平八郎 > アメリカとイギリスは当時、日本とロシア、どちらがわについていました?
岳飛鵬挙 > 国際社会的にはどうなのでしょう?>宣戦布告前
東郷平八郎 > ふむ、世界の情報を握るタイムズなどのメディアはアメリカとイギリスにありました。
金刺尭存 > しかし、奇襲をする事により他国からの批判は受けなかったのでしょうか?
東郷平八郎 > その通りです
内藤虎次郎 > そうですね。日露戦争は、時間との戦いでした。
金刺尭存 > 日本はロシアに国力でははるかに負けていたので、短期間に決着をつけようと考えていたために行われたものだと私は考えますが… >奇襲
内藤虎次郎 > そうです。宣戦布告前から、軍事行動は、始まっています。>これポイント。
岳飛鵬挙 > 戦線布告前にですか?
東郷平八郎 > 正式な部隊は宣戦布告と同じ10日に参謀本部が第一軍(司令官黒木為驕jの編成を決定します
金刺尭存 > また日本は、宣戦布告を前に強制的に韓国に従属勧告をしていたんですね。
内藤虎次郎 > 日本陸軍の軍事行動の開始は、2月8日から、始まったと考えてもらっていいと思います。
東郷平八郎 > そこから日露戦争の激戦が始まります
内藤虎次郎 > 日本は、太平洋戦争と同じく、宣戦布告なしの奇襲によって幕が開けたわけですね。
清水宗治 > そうでした、二月四日の御前会議では対露開戦を決定でした<2月4日
内藤虎次郎 > で、宣戦布告が、2月10日です。
東郷平八郎 > この二つの戦争は決議の4日後、打ち切りの2日後に起こったつまり2月8日の出来事です
内藤虎次郎 > 2月8日の話ですね。>元帥殿
岳飛鵬挙 > ふむふむ。φ(.. )めもめも
内藤虎次郎 > 2月4日は、対露軍事行動を決議したようですね。
東郷平八郎 > そして陸軍の先遣隊が仁川に上陸
内藤虎次郎 > 2月6日では、清水殿。日露交渉打ち切りの通告は。
金刺尭存 > 二月十日頃だったかと思います。 >宣戦布告 
東郷平八郎 > その4日後、連合艦隊が旅順港外のロシア艦隊を攻撃
清水宗治 > 日露交渉と国交断絶をロシアに通告したのですよね<2月4日
河尻秀隆 > ほう。
内藤虎次郎 > 宣戦布告は、いつでしたっけ?>金刺殿
東郷平八郎 > そうですね>副所長
内藤虎次郎 > 今回の話の終着点は、そこまでです。
金刺尭存 > >1904年
金刺尭存 > 2月4日、駐露公使が国交断絶を宣言してから日露戦争は始まるんですね。
内藤虎次郎 > ちょうど、旅順の激戦は、1905年(明治38年)1月2日に戦闘を停止していますので・・・・・。
内藤虎次郎 > 明治37年(1904年)中の出来事が中心になりますね。
東郷平八郎 > 開戦〜203高地までの歴史を勉強します
東郷平八郎 > 今回の歴史会テーマは「陸軍の日露戦争(前半)」です
金刺尭存 > こちらこそ、色々とよろしくお願いします。 >幹事様・皆様
清水宗治 > よろしくお願いします
岳飛鵬挙 > よろしくおねがいいたします。
内藤虎次郎 > こちらこそ、よろしくお願いします。
東郷平八郎 > 今回の歴史会で幹事を務めさせていただきます。皆様よろしくお願いします
内藤虎次郎 > さてと、いよいよ、スタートですか。
東郷平八郎 > それでは始めましょうか(^^)
小姓 > 暫し、お待ちを!東郷平八郎殿によって現在のお知らせが「近代史研究所歴史会二回開催中!」に設定されましたぞ。
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