<<< 日露戦争外伝 中央アジアを旅した日本人〜第一回〜 >>>
芹沢光幹 > お疲れ様でした
藤原経清 > さいなら〜
李淵淑徳 > それでは
一休宗純 > では、おさきに失礼します。
李淵淑徳 > どうも、おつかれさまでした^^
一休宗純 > おつかれさまでした^^
藤原経清 > 皆さん長い間のお付き合いありがとうございました。
李淵淑徳 > 了解しました。時間の都合がつくならば次回も参加させていただきます^^
藤原経清 > ということで、第二回は、仏の来た道ということで、日時は未定ですが、歴史会を開催したいと思います。
藤原経清 > 別に、過酷な環境だから、「ファイト一発」をやりにいったわけではありませんよ。(笑)
李淵淑徳 > 私としては民間レベルの貿易活動に大いに関心があるんですが、清代だと・・・(苦笑)
藤原経清 > さて、それでは、第二回の歴史会は、何故、大谷光瑞は、中央アジアを目指したのか?
藤原経清 > 私の場合は、清代が中心ですが・・・。(笑)
藤原経清 > この辺は、第三回の中央アジアの統治体制のテーマでお話しましょう。
藤原経清 > 唐代の西域経営は、はっきり言って赤字だったみたいですね。
藤原経清 > 中央アジアは、以下のような地理学的な特徴をあげることができます。
李淵淑徳 > わが王朝(唐)はどのあたりまで見極めて西域経営したのか・・・うわ、わかんない(笑)
藤原経清 > 2、そのため、大規模な領土国家が成立しえなかった。
藤原経清 > 軍人の給料>貿易の儲け(笑)
藤原経清 > 軍隊を駐屯させると赤字になりますよ。
藤原経清 > 1、中央アジアは、四方を山岳地帯で囲まれており、乾燥したエリアである。
李淵淑徳 > ただ、富の源泉でもあったともいえますけど(キャラバンの民間貿易なんか
藤原経清 > さて、そろそろ、まとめに入りましょうかね。
藤原経清 > 西域経営は、基本的に中国からすれば、赤字でしたからね。
李淵淑徳 > まあ、東西交易の重要性より、遊牧民の金蔓を絶つのが主目的なところもありましたしね(例外もないわけじゃないですが
藤原経清 > 中国からすると、同でもいいようなところですが。(笑)
藤原経清 > 遊牧民からは、いい金蔓ですね。(笑)
藤原経清 > 西洋風にいううと、羊飼いみたいな、牧畜の専門業者もいたみたいです。
李淵淑徳 > 自給自足ができたからこそ、遊牧民に穀物供給もできたということで
藤原経清 > 基本的には、オアシス都市国家は、農業とあと、少しの牧畜ですね。
藤原経清 > そうですね。数万〜十数万ぐらいは養えたみたいですから。
藤原経清 > 「24の文字・17の言語」と。
藤原経清 > ドイツの探検家のルコックという人物は、次のように指摘しています。
李淵淑徳 > ただ、気をつけたいのがオアシス都市の基本産業はやはり農業であるということでしょうね(数万程度の人口は自給自足で養えましたから
藤原経清 > タリム盆地は、民族の文字どうり坩堝ですからね。
一休宗純 > 産出量が少ない過酷な地域では、同じようなパターンになるんですかね。<あまった人口は商人へ
藤原経清 > ということで、タリム盆地に住んでた人は、らくだをつれて商売へ。
李淵淑徳 > そういえば、各都市国家内で結構内輪もめもあったような・・・<タリム盆地
小姓 > 芹沢光幹殿、ようこそお越し下されました。
藤原経清 > あまった人口は、商人へ。(笑)
藤原経清 > その辺も、タリム盆地とにてますね。
藤原経清 > ギリシア人は、三人寄れば、党派が四個できるとかは、さっきの話ですが・・・・。
一休宗純 > 失礼、続けてください(^^;
一休宗純 > それゆえにギリシャ人は海洋の通商に積極的になったのでしょうが。<作物大量産出不可
李淵淑徳 > おっと、失礼^^;<ギリシャ小旅行
藤原経清 > と、話が、タリム盆地からギリシアにとんでしましましたね。(笑)
藤原経清 > 確かにそうです。
藤原経清 > なるほど、そういう捕らえ方もありますね。
一休宗純 > どのみち、ギリシャもタリム盆地も、作物を大量に産出するには難しいということでは一致してますよね。
藤原経清 > その辺から、ギリシア人意識が成立しなかったのでは?
李淵淑徳 > むしろ都市国家の形態が個人の確立に影響したのでは?と私は逆に捉えてましたから(笑)
一休宗純 > ・・・まあ、ギリシャ人自らが、論争好きだと認めるぐらいですからね(笑)<個人
藤原経清 > 聞いた話だと、ギリシア人は、三人寄ると、党派が四個もできるとか。(本当?)
藤原経清 > ギリシア人の場合は、個人が確立されすぎてたのも理由のひとつでは。
藤原経清 > たしかに、そうですが。
李淵淑徳 > 土地条件は違いますが大人口を養いにくかったのは同じですから
藤原経清 > タリム盆地の場合は、水を支配するものがオアシス都市国家を支配するという状態でしたからね。
李淵淑徳 > いや、大人口を養えるか否かという条件に絞ってのみでの比較です
藤原経清 > あそこは、全体的に土地がやせていたのではなかったですかね。
藤原経清 > ギリシャの場合は、どうでしょうね。
藤原経清 > 作物が育たないとなると、その都市が養える人口は限られてきますからね。
李淵淑徳 > 巨大人口を養えなければ領域国家にはなりにくいですしね(ギリシャと比較できるかな?
藤原経清 > 肥沃な土地があっても、水がなければ、作物は育ちません。
小姓 > 織田五徳殿、またお越し下さいませ。
織田五徳 > 途中ですが、風呂に入るので失礼します
藤原経清 > 早い話が水が十分になかったからでしょう。
藤原経清 > それは、何故か。
李淵淑徳 > まあ、邑から国(中国)へ、もしくは都市国家から領域国家(ローマ)ですね
藤原経清 > ですが、ここ、タリム盆地においては、領土国家という概念が成立しえなかったのです。
藤原経清 > 中国においては、春秋時代が都市国家、戦国時代になって、領土国家が成立してくるといわれています。
藤原経清 > 大体、東洋でも、西洋でもそうですが、都市国家は領土国家の前段階ですよね。
藤原経清 > それが、タリム盆地に成立した、楼蘭であり、クチャ、ホータンといったオアシス都市国家であります。
藤原経清 > つまり、水さえあれば、人間は、生活することができます。
一休宗純 > どことなく、天の嫌がらせみたいですね・・・<肥沃ながら水がない
藤原経清 > つまり、水(さんずい)の少ない、漠ということです。
一休宗純 > うーん、由美かおるの笑顔みたいだ・・・(笑)<楼蘭の美女
藤原経清 > つまり、水が極端に少ないために、食物が育たないという環境です。
藤原経清 > タリム盆地は、決して、砂の漠ではなく、土自体は、肥沃なようです。
藤原経清 > 言葉遊びみたいなひょうげんですが・・・・。
藤原経清 > ただ、タリム盆地に関しては、「砂漠」ではなく、「沙漠」であるということができます。
李淵淑徳 > 塑像再現見つけましたが・・・う〜ん・・・楼蘭の美女 Web Site Address!!
一休宗純 > 想像以上に過酷な環境ですね・・・<雪解け水オンリー
藤原経清 > タリム盆地の水源は、雪解け水しか確保できませんからね。
一休宗純 > そいえば、つい先ほど、葱領について出ていましたが、パミール高原は葱の原産地みたいですねえ<検索してみた
藤原経清 > 大丈夫ですよ。化けて出るなら、先客が(おぃ)
藤原経清 > 結局砂漠化したエリアです。
藤原経清 > それが一年中吹き荒れる六甲おろしで、水が干上がってしまい、
一休宗純 > ・・・まあ、下手にケチをつけると、化けて出ますから。
藤原経清 > 私の大学では、評判はめちゃくちゃ悪かったです。(笑)
藤原経清 > あれ美人かぁ〜(爆)>楼蘭のミイラ
藤原経清 > タリム盆地は、どうも、人類が誕生するはるか以前は、巨大な湖だったようですね。
一休宗純 > 楼蘭というと、ミイラを思い出しますね。あの美人とか言われる。
李淵淑徳 > 仏教文化盛んな都市でしたしねえ
藤原経清 > そうですね。あと楼蘭も。
李淵淑徳 > クチャ、ホータンあたりですか?<タリム盆地の都市
藤原経清 > 大谷探検隊もタリム盆地にあるオアシス都市を中心とした遺跡を調査しております。
藤原経清 > 中心であり、
李淵淑徳 > 東トルキスタンになりますか
藤原経清 > だいたい、スタイン・へディン・プルジェワルスキー等が調査を行ったのは、タリム盆地にあるオアシスとし
藤原経清 > メインは、現在の新疆ウイグル自治区のタリム盆地が中心になります。
藤原経清 > 中央アジアの範囲は、こんな感じですが、今回の歴史会における範囲は、もっと狭くなり、
李淵淑徳 > 虚弱体質ですので・・・ご勘弁(根性なし
藤原経清 > 周りを海に囲まれてる日本でさえ、冬場は、太平洋岸は、異常乾燥注意報がよく発令されておりますし。
織田五徳 > 水が無いってのは致命的ですからね
李淵淑徳 > パミール越えなんて誰の旅行記でも難所じゃないですか^^;
藤原経清 > 淑徳殿、一度チャレンジを(おぃ)
藤原経清 > まあ、高い山々にかこまれて、水が確保できないという状態ですから、当然のことながら乾燥しておりますわな。
李淵淑徳 > ああ、残念←葱好き
藤原経清 > 葱は葱でも、食えないみたいですね。
藤原経清 > 「シルクロード探検」白水社より引用。
藤原経清 > と記しています。
藤原経清 > もちろんこれは食用にはならないが、これで葱嶺の名の由来が立証されたわけである。
藤原経清 > 一行中のある者は勇を鼓して鍬をふるい、あえぎあえぎようやくその二、三株を掘り取った。
李淵淑徳 > 風邪引きにはいいかも・・・(コラ<一面の葱
藤原経清 > 「キャンプ地の付近には、一面に葱が発生していた。(中略)
李淵淑徳 > 葱の高原ですか(音写じゃないんだ
藤原経清 > 大谷光瑞の日記、9月13日の条によりますと、
藤原経清 > パミール高原には、葱科の植物は生えているようです。
藤原経清 > ちなみに、パミール高原は、中国の史料では、「葱嶺」といいますが、
李淵淑徳 > ああ・・・私は草原とオアシスで捉えてたから、もうちょっと広く考えてました(苦笑)<パミール中心
藤原経清 > 盆地=夏は暑く、冬は寒いというのは定説ですね。(笑)
藤原経清 > イメージからすれば、パミール高原から四方に伸びる山脈に挟まれた盆地ということができます。
藤原経清 > 当然ですね。>分断。
李淵淑徳 > 現在の国境はかなり身勝手な線引きですしね(苦笑)
藤原経清 > 世界の歴史10「西域」河出書房新社より引用。
織田五徳 > 現在の国境だと分断されるところがありますね
李淵淑徳 > なるほど。湖で言えば、バイカル湖(ちと北過ぎですが)からカスピ海あたりってことになるかな?
藤原経清 > つまりモンゴリアの大部分、ジュンガリア、北部チベット、東西トルキスタン、アフガニスタンの北半」なのであるようです。
藤原経清 > 「中央アジアを構成しているのはアジア大陸内部の外洋に流れ出していない内陸河や内陸湖の分布している諸地域
藤原経清 > 19世紀の地理学者であるリヒトホーフェン」が下した定義によりますと、
李淵淑徳 > 中国より西、メソポタミアより東、インド含まずで、イランも個人的には含んで捉えております<中央アジア
藤原経清 > まあ、今回の歴史会における「中央アジア」・「西域」の定義としては、
藤原経清 > 中華思想ですからね。
織田五徳 > 中国は昔から「自分たちが世界の中心」ってな考えでしたからね<よって西域
藤原経清 > 極端な話をいうと、ヨーロッパも、広い意味では西域ですし。
藤原経清 > ただ、「西域」=中国より西は、すべて「西域」ですし。
藤原経清 > 中国の史料では「西域」とも言いますが。
藤原経清 > 「中央アジア」の範囲はどのあたりを指すのでしょうね。
織田五徳 > あまりしてないんですね<知らなかった
李淵淑徳 > これが難しいんですよね^^;気候的区分で言えば、ユーラシア内陸部の乾燥地帯ですか<中央アジア
李淵淑徳 > ん〜と、意外にも中国が中央アジア進出したのは唐以降、清代まで止まってるんですよ
藤原経清 > 皆さん理解してるような感じですけども、「中央アジア」の定義はどうなるか考えたことがありますか?
李淵淑徳 > 左宗トウが頑張ったようですね<清朝
織田五徳 > 中国も昔から進出は狙ってますね<馬が欲しいってのもあったような記憶が……
藤原経清 > 第三回目にその辺は詳しく触れましょう。
藤原経清 > そうですね。
藤原経清 > 意外と、清朝も善戦してますからね、中央アジアに関しては。
織田五徳 > イスラム化してから、仏教関係の物が壊されたりもしましたね<つい最近も
藤原経清 > 宗教的には、時代区分としては、イスラム期と、プレ・イスラム期で大雑把に分ければいいと思いますよ。
李淵淑徳 > 北からロシア、南からイギリス、清朝がかろうじて東から新疆・・・という構図になりますかね<日露戦争前後
藤原経清 > まあ、宗教面では、18世紀ぐらいには、イスラム化が成立していますからね。
藤原経清 > 日露戦争前後では、さすがにイランは影響力をほぼ及ぼしていなかったでしょうし。
藤原経清 > いえ、イラン文化圏=ロシアというのはほぼこじつけですが、シベリア経由で、中央アジアには影響を及ぼしていましたから。
李淵淑徳 > 宗教もイスラム以前は仏教、マニ教、ネストリウス派キリスト教・・・複雑でしたねぇ
織田五徳 > 宗教が絡むと一番泥沼化ですね
李淵淑徳 > イランに食い込んでたんですか?<ロシア
李淵淑徳 > 部族(トライブ、もしくはイル)は今はかなり小さいですけど、互いが争い吸収しあうことで大勢力になったりしたんです(モンゴルとか
藤原経清 > 古代より、中央アジアというエリアは、最低でも3つの文化圏の間に挟まれていたエリアですね。
藤原経清 > 中国文化圏=清朝・インド文化圏=イギリス・イラン文化圏=ロシアと読み替えることができます。
織田五徳 > 彼らにとっては、異部族の者の拘束は自衛手段だったみたいですけどね<今のイラクでもありますね
李淵淑徳 > 敦煌の文書なんか仏教関係者にも垂涎の的だったでしょうしねえ
藤原経清 > これは、近代においても状況は同じだと考えられます。
織田五徳 > 旅行中に部族に拘束されるって話も聞きました<中央アジア
藤原経清 > 当然、刺激になってますよ。
李淵淑徳 > オアシスと遊牧の南北対決、さらにシルクロードの東西中継、ついでイスラムの進出で常に複雑でしたよ>五徳姫様
藤原経清 > 部族だけではなく、古くは、中国文化圏・インド文化圏・イラン文化圏がぶつかり合うエリアでしたからね。
李淵淑徳 > スタイン、ヘディンの調査もやはり刺激になったのでしょうか?
藤原経清 > スタイン、プルジェワルスキーあたりの話もしますよ。
織田五徳 > 中央アジアって、昔から結構複雑だったんでしょうね(部族等の勢力など)
藤原経清 > そのあたりは、詳しくは、第四部で、ヘディン、
藤原経清 > そうですね。
李淵淑徳 > 19世紀末から、中央アジア調査が活発になってきてますね
藤原経清 > 奇しくも第一回大谷探検隊がイギリスをスタートした1902年とは、日英同盟が締結された年でもあります。
藤原経清 > 当地の仏教遺跡を中心に考古学的調査を中心に行った大谷探検隊の第一回探検の時代背景を考察してみたいと考えております。
藤原経清 > 明治35年(1902年)から、大正3年(1914年)の間に3回に渡り中央アジアに派遣され、
織田五徳 > うちの大学は仏教関係ですから、詳しい人がいるかもしれない・・・
藤原経清 > 浄土真宗本願寺派(西本願寺)の第21代門主(教団の一番偉い人)である大谷光瑞が中心となって、
藤原経清 > そもそも、今回の歴史会のテーマは、「日露戦争外伝:中央アジアを旅した日本人〜第一回大谷探検隊を中心として」ということで、
藤原経清 > 今日は歴史会です。
小姓 > 藤原経清殿、ようこそお越し下されました。
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