太平記の悪役達A〜足利尊氏
小姓 > 暫し、お待ちを!楠木正儀殿によって現在のお知らせが「誰も人が居ない時は交流茶室を覗いて見ましょう」に設定されましたぞ。
李淵淑徳 > こちらこそありがとうございました^^
李淵淑徳 > それじゃあ、悪役としてのとりえがないことに(笑)<劉備
楠木正儀 > ではこれにてお開きとします。皆様、長時間お疲れ様でした。次回の歴史会(高師直について)も宜しくお願いします^^
李淵淑徳 > もうちょっと野心家かと思ってたんですけど、そういう要素あまり見えないですね
楠木正儀 > まぁイメージ的には三国志演義での劉備玄徳ですかね(笑)
今川氏真 > 終わり頃からでしたので、うまくはまとめられませんが、今までは「逆賊」のイメージが強かったのですが、かなり見方が変わったように思えます。
久坂玄瑞 > 私も今まで鎌倉幕府を滅ぼしたバリバリの武人だと思っていたので。
久坂玄瑞 > 子供であれ、部下であれ、うまく力を出させようとしていたのかなと思います。
久坂玄瑞 > 途中参加でしたが、過去ログと直で聞けたのをあわせると・・・
李淵淑徳 > 部下のコントロールに苦労する管理職ってイメージあったんですが、個人としてみると、大人で好感持てる最高権力者にイメージ修正します(笑)
楠木正儀 > そうですね、尊氏自身優柔不断な所がありましたから
李淵淑徳 > 逆に部下に甘くなりがちという欠点にも繋がりかねませんよ<高師直と、直義の仲の悪さ
楠木正儀 > では時間ですのでここらで歴史会を終えたいと思いますが、最後にまた足利尊氏のイメージを聞きたいと思います
李淵淑徳 > ふむふむ・・・まあ、尊氏個人としては人格者で、十分下に慕われる条件を持っていたということですね(イメージ修正の必要が・・・
久坂玄瑞 > やはり部下を巧く使っていたんですかね<高師直、足利直義らの能力
楠木正儀 > 後は当時の人の支持ですかね
楠木正儀 > 尊氏の人格的な所もありますが、次回取り扱う高師直、足利直義らの能力が大きかったと思います<初期室町幕府
李淵淑徳 > つまり、初期室町幕府は尊氏個人による人格的結合に頼っていたということなんでしょうか
楠木正儀 > 戦場にあっては、いくら危機に出遭っても怖がることがなく、実に勇敢な人である。」
楠木正儀 > 慈悲深く、決して人を怨んだり起こることもなかった。心が広く、たとえ敵でも許してやることが多かった。
楠木正儀 > 人から進物をもらってもすぐに家臣たちに与えてしまうし、金銀をまるで土石のようにしか思わなかった。
楠木正儀 > 「仁徳を備えている上、金銭欲や物質欲がなく、とても気前がよい。
李淵淑徳 > ただ、それが遠方にまで及ぶかというのがありますね<土着化した地方勢力は中央に頻繁に来ない
楠木正儀 > この尊氏を当時の名僧、夢窓疎石は次のように評価しています
楠木正儀 > 言葉はさっぱりしており、口うるさい人ではなかった。つまり、小事にはあまりこだわらない性格の持ち主で、家臣の失敗をあまり責めず、次のチャンスを与えています
小姓 > 吉川広家殿、またお越し下さいませ。
久坂玄瑞 > 良いリーダーの条件の1つと言えるでしょうね<家臣の意見をじっくりと聞く
李淵淑徳 > 昔の武士が理想とした親方って感じもしますね<自由活発に言い合える
吉川広家 > ではわたしも今日はこの辺で落ちます
楠木正儀 > また、包容力のある寛大な人で、親しみやすい性格も持ち合わせており、周りの人たちから慕われました
楠木正儀 > 懐良親王には外国の動きもそれなりの重みがあったでしょうね・・ただ親房らは・・(笑)
楠木正儀 > 自分の意見を押し通さずに家臣の意見をじっくりと聞く人であり、周囲の人たちはやり甲斐を感じ、議論の時などは気兼ねなく自由活発に意見を出し合うことができました
李淵淑徳 > 九州で懐良親王が明の使者とやりあってますね。どっちもどっちだと言う気もしますが(笑)
楠木正儀 > 尊氏は己の能力の限界をよく知っており、常に謙虚であった。それがため、自分の能力を過信せず、自分の欠陥を補ってくれる人物を集め、彼らの才能を見い出しては巧みに管理しました
楠木正儀 > では次に移りたいと思います
楠木正儀 > そんな所でしょうね(笑)<南朝
楠木正儀 > そうですねぇ<1348年あたり
李淵淑徳 > 南朝重臣は分かりませんけど、後醍醐天皇には多分、外国のことなんか目に入ってなかったんじゃないですか?(笑)
吉川広家 > 南朝は日本を「神国」として外国を蛮族としていましたね
楠木正儀 > 対する、南朝の北畠親房らには外国の動きがどのくらいの重みがあったんでしょうか・・
李淵淑徳 > 天龍寺船もこの頃じゃないですか?<1348年
楠木正儀 > このように、尊氏ら北朝の政治家達は外国にも関心をもってました。
李淵淑徳 > 方国珍(海の支配権握ってた)の挙兵が1348年・・・おそらく、貿易相手は方国珍の勢力かな?(朱元璋の自立はかなり後です
楠木正儀 > ちなみに、その甲斐あってか、元朝は滅亡。 朱元璋が明王朝を築いてからは日本との貿易が盛んになります
小姓 > 東郷平八郎殿、またお越し下さいませ。
東郷平八郎 > 申し訳ありません。席をはずしておりました。まだ参加したいのですが一旦失礼しますね^^;
吉川広家 > 刀剣は勘合貿易でも輸出していたような・・
小姓 > 伊東甲子太郎殿、またお越し下さいませ。
伊東甲子太郎 > では、
伊東甲子太郎 > さて、そろそろ落ちますね
楠木正儀 > 朱元璋の反乱が起こっていた頃です
楠木正儀 > また、貿易と言う口実で、元朝に反抗している者に武器の輸出をしていました。その証拠に輸出品は刀剣が主流でした
李淵淑徳 > 当時はまだ中国じゃ本格的な反モンゴル運動なかったんじゃないですか?
楠木正儀 > しかし、この船は単なる貿易だけを目的としたのではなく、中国の情報収集の為に派遣されたものでもありました
楠木正儀 > またまた失礼、天龍寺船とは、後醍醐が亡くなった後、その冥福を祈るための菩提寺を建立するため、足利尊氏が至本という人物を使って中国に渡らせた貿易船です
伊東甲子太郎 > ふむ
楠木正儀 > 天龍寺船とは、後醍醐ga
吉川広家 > ご丁寧に自分の息子のおくり名も「後村上」ですし(笑)<平安への回復
楠木正儀 > 訂正↓天竜寺→天龍寺
李淵淑徳 > 元朝滅亡に?反元勢力なんかと結んでたんですか?
楠木正儀 > 失礼、天竜寺船の派遣の真の目的はここにあったようです
楠木正儀 > 天竜寺船の派遣no
小姓 > 今川氏真殿、ようこそお越し下されました。
楠木正儀 > 彼は元朝滅亡に手を貸しているのです
伊東甲子太郎 > 新政という名にふさわしくない政治ですね
楠木正儀 > ちなみに、尊氏の政治に関して一つ面白い話があり
李淵淑徳 > 新政とはいっても目指すは平安への回帰(醍醐天皇の御世)ですからね
伊東甲子太郎 > なるほど
楠木正儀 > 建武の新政はかなりの反動政治で非難の声が高まり、足利尊氏を奉じて新しい武家政治に人々は期待するようになっていきました
李淵淑徳 > まあ、時代錯誤すぎる復古体制(大混乱)にしがみつく後醍醐天皇じゃねえ(苦笑)<支持
楠木正儀 > 護良親王とはそれ以前に対立してます
楠木正儀 > 色々な事ですね<権威を弄ぶ
伊東甲子太郎 > 後醍醐天皇は息子とも対立してましたよね?
楠木正儀 > まぁ、こうなると当時の人がどちらを支持したかが大切となってきますね
吉川広家 > 偽神器をつくったことですか?<権威を弄ぶ
李淵淑徳 > どう考えても後醍醐天皇の理想の体制にならないの分かってるんだから、もう意地になってるとしか思えませんね^^;<後醍醐の抵抗
楠木正儀 > 中でも、朝廷の権威を高めるべき後醍醐自身が一番朝廷の権威を弄んだと言えます
楠木正儀 > 当時の政治家は、このように複雑な朝廷の内部混乱を利用して、朝廷を弄び
李淵淑徳 > あ〜ややこしい・・・(−−;)<朝敵になったり、官軍になったり
小姓 > 久坂玄瑞殿、ようこそお越し下されました。
楠木正儀 > やがて、後醍醐は京都を脱して吉野の山へ。これにより再び朝廷が2局となりました
伊東甲子太郎 > 平家が安徳天皇を擁立し、三種の神器も持っているにも関わらず、後白河法皇が後鳥羽天皇を擁立した事と似ていますね。
楠木正儀 > この時点で足利尊氏軍は官軍となり、光明天皇に反抗しつづける新田義貞や北畠顕家らは朝敵となります
伊東甲子太郎 > 源平みたいですね。<後醍醐天皇
李淵淑徳 > 譲位してたんですか<後醍醐天皇
楠木正儀 > しかし、その後まもなく後醍醐は降伏し、光明天皇に譲位。後醍醐は上皇になりました
吉川広家 > 幕末には足利三代木像きょう首事件が起こりましたからね<朝敵
楠木正儀 > しかし、後醍醐は正式に譲位していないから、比叡山に逃れた後醍醐はまだ天皇でありました
楠木正儀 > 湊川の戦い後、尊氏の擁立した光明天皇が即位
李淵淑徳 > 三種の神器が南朝にあったからだとか、漫画で読みました<南朝正統の根拠
楠木正儀 > 朝敵論争は次元の低いものになりますが、
楠木正儀 > 江戸時代の水戸学はなぜか南朝正統の考えをとり、明治時代になるとこれが主流となりました
伊東甲子太郎 > まあ、幕府軍から朝廷軍への寝返りや後醍醐天皇を追い出したりしてましたからね<逆賊
楠木正儀 > 江戸時代やそれ以前は、その評価は逆で、武士達の多くは八幡太郎義家、源頼朝、足利尊氏を偉大な棟梁とし敬っていましたが
李淵淑徳 > いわゆる水戸史観の影響なんでしょうね<逆賊
楠木正儀 > 尊氏は戦前は朝敵や逆賊と言われていたのは有名ですが
伊東甲子太郎 > どうぞ
楠木正儀 > では次に移りたいと思います
楠木正儀 > それなりにあったと思いますが、その辺の所は詳しくは語られてませんのでよく解かりません^^;<教養
李淵淑徳 > 源氏の出で、武士とは言っても第一級の名門ですからね・・・流罪の頼朝や、戦国生きるのに大変だった信長達とはやっぱ育ちが違うんでしょう
伊東甲子太郎 > 和歌だけという事ですが、それ以外の教養は?
吉川広家 > 源実朝も高い評価を与えられていますが彼は政治史では暗愚な君主ですからね
伊東甲子太郎 > そうですね。
楠木正儀 > 何と言っても、幼い頃に学問に生きる僧侶になりたがってますからね(笑)
東郷平八郎 > ずいぶんな教養のもちぬしだったんですねぇ
楠木正儀 > と述べています
楠木正儀 > しかし、足利尊氏の和歌だけは文学的に高い評価を与えてもよい。」
楠木正儀 > 豊臣秀吉の手紙は情愛溢れる名文だが、和歌は遊び程度。徳川家康、織田信長などは語るのもおっくうだ。
楠木正儀 > 「源頼朝の和歌をみると、たしなみ程度の和歌を作ったに過ぎず、まず平均点をやるのが精一杯だ。
李淵淑徳 > 室町文化は現在の文化の元ですから、そういう意味では尊氏は恩人ですね^^
楠木正儀 > 足利尊氏の代表的研究家として有名な故、高柳光寿氏は著書『足利尊氏』のなかで・・
東郷平八郎 > なるほど
楠木正儀 > 日本の歴代権力者の中では、かなり教養が高いほうだと言えます
伊東甲子太郎 > ただいま
小姓 > 伊東甲子太郎殿、ようこそお越し下されました。
楠木正儀 > カリスマ性に関しては二十分後位にお話致します^^
楠木正儀 > 文化を愛する考え方は、尊氏後の代代の室町将軍に受け継がれ、現代にも通じる日本文化を花開かせました
吉川広家 > 結局日本国民全員を服従させることはできませんでしたからね<カリスマに欠ける
楠木正儀 > 尊氏は、教養面でバランスの取れた心豊かな人であり、文化面にも理解を見せました
李淵淑徳 > そういうタイプはカリスマに欠けてたりするんですよね(笑)<真面目
吉川広家 > へえ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜勉強になりました
楠木正儀 > では次は尊氏の教養面です
李淵淑徳 > もの凄い、退屈なくらいのくそ真面目人間ってイメージがわいてきました(笑)<尊氏の性格
東郷平八郎 > ありがとうございました^^
楠木正儀 > おぼっちゃま育ちですからね<ど真面目
楠木正儀 > 以上でトリビアのコーナーは終わりです。尊氏の性格がよくわかったのではないかと思います
李淵淑徳 > どうも、ど真面目人間ってかんじですね<尊氏
李淵淑徳 > 律儀に妻に操立ててたんですか(たいしたもんだ
楠木正儀 > 直義に関してはまた次の機会に語りますので、お楽しみに(笑)
楠木正儀 > 一応子供がいますから、病気と言う訳では無いかと(笑)
吉川広家 > 直義の実子って聞いたことありませんからね
李淵淑徳 > どっか病気だったんじゃないですか?(真剣<尊氏兄弟
李淵淑徳 > 徳川家康なんか各種取り揃えてたのに・・・(おい<色好み
吉川広家 > 「英雄色を好む」。すると尊氏は英雄ではない?(笑)
楠木正儀 > 補足トリビアBその上、なんと弟の直義にも女性に関する醜聞は全く無い!
東郷平八郎 > それはすごい。
楠木正儀 > 特に無いです<男との醜聞
楠木正儀 > 日本史上の歴代最高権力者のほとんどが色好みだったのに対して尊氏は例外なんですねぇ
李淵淑徳 > 男との醜聞もなかったんですか?<戦国武将見ると・・・
吉川広家 > 満へえ!本当に武士ですか?(爆)
李淵淑徳 > へぇ〜!!×∞
楠木正儀 > 補足トリビアAなんと、尊氏は正室の登子を迎えてから五十三歳で死ぬまでの三十数年間、女性との醜聞が全く無い!
李淵淑徳 > 親近感沸くなあ・・・(おい<もてない
吉川広家 > 祖父の自決の影響もあったかも<出家願望
李淵淑徳 > ないでしょうねぇ・・・お后の位階決まってますし、死人に大事な地位取られたら、その座を狙う人間が困る(笑)<前例なし
楠木正儀 > その為か、陰気な所があり、女性にはあまりもてなかったようである
楠木正儀 > 補足トリビア@尊氏は子供のころからおとなしい性格であり、学問に生きる僧侶になりたかった
楠木正儀 > 文和4年(1355)の3回忌に「頼子」の名を授かり、従一位を請い、崇光院の女御という扱いになってます<形式上
楠木正儀 > 死んだ娘を天皇の妃とする尊氏・・物凄い親馬鹿ですね
吉川広家 > 形式上はどういった感じだったのでしょうかね
東郷平八郎 > なるほど。前例がないのにですか。
楠木正儀 > 朝廷も尊氏の心情がわかったのか、前例が無いにもかかわらず、それを許認しました。
李淵淑徳 > 死んだ娘を?死んだ娘と息子を結婚させるってのは聞いたことあるけど^^;
小姓 > 張良子房殿、またお越し下さいませ。
楠木正儀 > どうか、勝手とは思いますが、私の死んだ娘を主上のお妃にしてやってはいただけませんか。」
楠木正儀 > とても後悔しています。そこでお願いがございます。
楠木正儀 > 「私は来る日も来る日も戦に明け暮れ、生前の娘に何もしてやれませんでした。
楠木正儀 > そして泣きながら次のように言いました
小姓 > 伊東甲子太郎殿、またお越し下さいませ。
伊東甲子太郎 > ではでは
伊東甲子太郎 > さて、一旦失礼します
楠木正儀 > 尊氏の晩年に愛娘鶴王が死に、その直後、尊氏は天皇に面会を求めます。
吉川広家 > 10へえ
李淵淑徳 > よく義詮(当時人質で鎌倉)は無事でしたね(北条一門の血が流れてるからかな?
伊東甲子太郎 > 事実上の長男というわけでしたからね<竹若
楠木正儀 > やがて、登子との間に基氏と鶴王も生まれます。
伊東甲子太郎 > ほほう
楠木正儀 > そうですね<赤橋守時の妹
楠木正儀 > 女性にはそれ程の関心を示さなかった尊氏も、自分の子には深い愛情を持っており、彼は竹若の死を聞いて狂ったように泣いたと言われています
吉川広家 > 赤橋守時の妹ですよね<登子
楠木正儀 > 六波羅探題を攻めた直後、最初の子竹若(十一歳)が幕府方に捕らえられて殺されたのです
東郷平八郎 > ふむ
楠木正儀 > しかし、その尊氏に不幸が訪れます
楠木正儀 > この登子との間に義詮が生まれてから四年が過ぎたころ、尊氏は六波羅探題を攻め、激動の渦中に入ります
李淵淑徳 > 高時(享年30)の愛人なら若そうですね(おい
伊東甲子太郎 > その竹若と直冬をかわいがっていたと?
楠木正儀 > この正室が北条一門の登子です
楠木正儀 > やがて、正式な縁談が舞い込みますが、政略結婚の色合いがかなり強いものでした。
楠木正儀 > 尊氏は二人を素直に受け入れ、二人の女性に一人ずつ子供が生まれました(竹若と直冬)
楠木正儀 > 訂正↓たか時→高時
楠木正儀 > もう一人は、執権北条高時に押し付けられたたか時の元の愛人(越前局)
楠木正儀 > 一人は元服の際に当時の上流武家階級の習慣に従って父の貞氏があてがった女性。
楠木正儀 > 尊氏は正室を迎える前に二人の女性がいました。
楠木正儀 > いえ、義詮に対してはかなり厳しいです(義詮に関しては足利直義の時に詳しく取り上げる予定です)
吉川広家 > それとも基氏?
楠木正儀 > では解説に移りたいと思います
李淵淑徳 > 義詮に甘かったんですか?
李淵淑徳 > 9へぇ
吉川広家 > 8へえ!
東郷平八郎 > 10へぇ(笑)
伊東甲子太郎 > 12へえ(笑)
楠木正儀 > 002『足利尊氏は、超親馬鹿だった』
吉川広家 > 待ってました!
楠木正儀 > 次はこちらのトリビアです
楠木正儀 > そこまでは解かりません^^;<尊氏の私的文書
吉川広家 > 松永久秀は祐筆から成り上がった代表的な人物ですし<幕末まで
李淵淑徳 > 私的文書もですか<祐筆が書く
伊東甲子太郎 > そうですね。祐筆は幕末あたりまでいましたからね
楠木正儀 > まぁサイン(花押)の練習をした尊氏は文書自体は練習どころか書いてもいないと言う所で(笑)<補足C
吉川広家 > 祐筆は公私問わず書いていましたからからね
李淵淑徳 > 普通、文書はだいたい祐筆じゃないんですか?
楠木正儀 > 補足トリビアC尊氏の発行した文書のほとんどは、疋田妙源、安富行長ら数人の祐筆たちが文案を書き、それを尊氏が熟読してから源朝臣尊氏とサインをし、その下に花押を記していた。
李淵淑徳 > 鎌倉滅亡後、後醍醐天皇の尊治の字をもらったんですね<改名
伊東甲子太郎 > 確かに、証人がいないと真偽はわかりませんからね
楠木正儀 > そうですね、後醍醐の名前から尊の字をもらってますから<名前変わったのは幕府を滅ぼしてから
東郷平八郎 > 30ほう(笑)
楠木正儀 > このような時は、面識のある者が出向いていくか、文書発行者の所有とわかる物を提出させるのが常識であった。
吉川広家 > へえ(満へえ)
伊東甲子太郎 > でも、名前変わったのは鎌倉幕府滅ぼした後ですよね?
楠木正儀 > 補足トリビアB足利尊氏が六波羅を攻めた際に発行した軍勢催促状のように、初回、緊急、それも相手が遠方であった場合、花押が本物だとしても、文書を受け取った側は真偽の判断に迷うはずであり
楠木正儀 > でしょうね・・おぼっちゃまである尊氏には厳しいものだったんでしょうねぇ(笑)<練習
伊東甲子太郎 > 高氏→尊氏ですからね
楠木正儀 > 万一、真似されることがあるかもしれないので、要人はさらに工夫を凝らす事があったようです<補足Aの補足(笑)
吉川広家 > 尊氏の場合、途中で名前が変わったので練習はさらに過酷なものになったでしょうね
伊東甲子太郎 > じゃ、私だけ?<20いっていない
楠木正儀 > 花押は、他人がいくら真似しようと思っても、本人の癖や得量を真似ることはまず不可能と言われていますが
李淵淑徳 > (もうへぇ入れようないので、スイッチだけ叩いてます)
吉川広家 > わたしも13へえ追加
伊東甲子太郎 > +2へえ(現在17へえ)
楠木正儀 > これは粗品ゲットですな(笑)
李淵淑徳 > 更に10へぇ+(笑)<大臣の署名に使用
楠木正儀 > 補足トリビアA足利尊氏の場合、花押に特殊な青墨を使い色を付けていた。
伊東甲子太郎 > 20超えてますよ(笑)>淑徳殿
張良子房 > へぇへぇへぇ
東郷平八郎 > 18おぉ〜で(笑)
李淵淑徳 > 真面目な野心家というところですか(笑)<+13へぇ
楠木正儀 > 補足トリビア@現在でも閣議の議決の署名の際、各大臣はそれぞれの花押を書き添えます。
吉川広家 > 建武新政の頃、偽綸旨が横行してましたから文書の正確さは大事ですね
伊東甲子太郎 > なるほど、+10へえ(笑)
東郷平八郎 > へぇ〜というより「おぉ〜(感動)」(笑)
楠木正儀 > 重みと責任のある花押を書くために一生懸命に練習をした尊氏・・極めて素直で良心的な人物と言えます
伊東甲子太郎 > 心情を隠すためでもありますよね。
楠木正儀 > 初期はごくありふれた筆跡なのだが、晩年になるに従い、天下人にふさわしい貫禄と穏やかな心理を象徴する素晴らしいものになっていったようです
伊東甲子太郎 > なるほど
東郷平八郎 > なるほど。筆跡鑑定のような技術がそんな昔からあったんですねぇ。
李淵淑徳 > 花押でマイナスイメージ出さないように、常に心がける必要があるということですか
楠木正儀 > 天下人を目指す者としての自覚と、将に将たる者の貫禄に相応しい花押を記すために猛練習をし、建武の新政の頃から急に花押が立派になり、年を経つにつれて見事になっていきます
楠木正儀 > 尊氏はこれにいち早く気づき・・
吉川広家 > ほう
楠木正儀 > 征夷大将軍のように責任の重い仕事をする人ほど、その事をわきまえて記さなければなりません。
楠木正儀 > さらに、花押は、それを見た者が記した者の人格や能力、それに心理状況を判断する材料ともなり、
東郷平八郎 > なるほど
楠木正儀 > しかし、疑われるような文書は発行できず、いついかなるときも責任を持てる花押を記す必要があります
伊東甲子太郎 > ふむ
楠木正儀 > 又、戦場で戦っている事さえあり、常に冷静な気持ちでいるとは限りません。
楠木正儀 > とは言っても、落ち着いているときもあれば、気持ちがいらだっている時もあります
楠木正儀 > 花押を記す場合、記せばそれが決定条項になるので、慎重に判断した上で花押を記さなければなりません
李淵淑徳 > 江戸時代までは花押ですね
伊東甲子太郎 > まあ、そうですね。織田信長が生きていた時も文書で花押は使われていました。
楠木正儀 > その花押には、書く人の性格や心理状態がよく現れると言われています
吉川広家 > 6へえ
楠木正儀 > 今では契約や公文書には捺印を使うのが常識となっていますが、昔は花押が常識で多くの古文書にも記されています
李淵淑徳 > 12へぇ(笑)
楠木正儀 > では解説に移りたいと思います
東郷平八郎 > へぇ×10w
吉川広家 > 戦前の評価は厳しいものでしたね
伊東甲子太郎 > それは今の所5へえぐらいということで、解説を聞きます。
張良子房 > へぇへぇへぇへぇへぇへぇへぇへぇへぇへぇへぇへぇへぇへぇへぇへぇへぇへぇへぇへぇ
吉川広家 > 尊氏=「国賊」ですから
東郷平八郎 > 戦前では悪人だったそうですねぇ。逆賊って<おばあさまではイメージが
楠木正儀 > 001『足利尊氏は、一生懸命サインの練習をした』
楠木正儀 > ではこちらのトリビアです(笑)
伊東甲子太郎 > 確かに裏切り者っていうイメージもありますね
吉川広家 > トリ〜ビア〜♪
楠木正儀 > やっぱり(笑)<祖母のイメージでは悪人
東郷平八郎 > 楽しみですねぇ〜^^<トリビア
伊東甲子太郎 > ほうほう?
李淵淑徳 > ちなみに私の祖母のイメージでは尊氏=悪人です(笑)
楠木正儀 > では、尊氏の性格がよくわかる『トリビア』のコーナーに進みたいと思います
楠木正儀 > 様々なイメージがありますねぇ
李淵淑徳 > もうほとんど尊氏の生涯覚えてないんですが(おい)幕府自体が力弱いし、南朝あるし、弟が叛くし・・・<強さ感じない
吉川広家 > 確かに弟の直義に比べれば武の人ですね<尊氏
楠木正儀 > 成る程・・
伊東甲子太郎 > 信長っていうより、平清盛の方が近いでしょうね<尊氏のイメージ
東郷平八郎 > ええ、単純に戦が上手な方。みたいな。
伊東甲子太郎 > というより、武家政治復興を成した人っていう感じもします
楠木正儀 > 信長タイプと言った所ですか?<武のイメージ
李淵淑徳 > そうですね。あまり強さというもの感じないですね
東郷平八郎 > 単純に幕府を倒したってイメージが先行するんで僕の場合「武」というイメージがあるんですよねぇ。
楠木正儀 > つまり、自己主張が少ないおとなしい感じと言うことですね<イメージに欠ける
伊東甲子太郎 > なんでしょうねえ・・・
李淵淑徳 > 私は武将としては、尊氏イメージ欠けるんですよねぇ<周りに掣肘されまくってたって感じが
小姓 > 吉川広家殿、ようこそお越し下されました。
張良子房 > やっぱり武の人というイメージが
楠木正儀 > 人物の性格とかに関しては如何です?<イメージ
張良子房 > すいません。初めてなもので・・・
楠木正儀 > 子房殿は如何です?
楠木正儀 > ほうほう、武官ですか
伊東甲子太郎 > こんな感じでいいでしょうか?<イメージ
李淵淑徳 > 尊氏はなんかひーこら言ってようやく形だけの征夷大将軍になったような・・・(周りの武将に隠れるというか
伊東甲子太郎 > 単純に後醍醐天皇と共に鎌倉幕府を倒し、室町幕府を建てた武将ですね。
楠木正儀 > そんな事言わずに、どんどん発言して下さい^^>元帥閣下
東郷平八郎 > なんか武官!ってイメージが<足利尊氏
楠木正儀 > では始めに、皆様は足利尊氏にどのようなイメージを持っていますか?
伊東甲子太郎 > 足利尊氏ですね。
張良子房 > 宜しくお願いします。
伊東甲子太郎 > まずはトピックを変えたほうが?
東郷平八郎 > こちらこそよろしくお願い致します。本日はお話しを拝聴させて頂きます^^
小姓 > 暫し、お待ちを!楠木正儀殿によって現在のお知らせが「歴史会〜足利尊氏〜開催中」に設定されましたぞ。
伊東甲子太郎 > こんばんは
李淵淑徳 > はい、よろしくお願いします^^>楠木殿
伊東甲子太郎 > konnbannha
小姓 > 伊東甲子太郎殿、ようこそお越し下されました。
楠木正儀 > 皆様宜しくお願いします^^
楠木正儀 > では始めましょうか
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