<<< 太平記の悪役達@〜北条高時 >>>
楠木正儀 > ではこれにてお開きとします。皆様、長時間お疲れ様でした。次回の歴史会(足利尊氏について)も宜しくお願いします^^
久坂玄瑞 > ありがとうございました。勉強になりました。
李淵淑徳 > 特には。どうもありがとうございました^^
楠木正儀 > では、そろそろ終了させて頂きたいと思いますが、何か質問等はありますか?
楠木正儀 > 一族も自らの意思で高時と共に切腹してますから、それは難しかったと思います
久坂玄瑞 > ん〜私としては高時が自害して、一族を助けてくれと頼んで欲しい気がしますね・・・
李淵淑徳 > 名君の定義に関しては置いときますけど、太平記の影響のマイナス評価は改める必要感じました
楠木正儀 > では最後に、北条高時に対する感想を聞かせて頂きたいのですが、よろしいでしょうか?
楠木正儀 > そうですね、彼は幕府政治の全ての責任を背負って死んでいったわけです・・
楠木正儀 > 幕府の幕引きにふさわしい、潔い死に方をリードした北条高時を「名君」と評価してもいいと思います
李淵淑徳 > 高時は人物がどうこう以前に時代の流れに流されちゃったわけですね
久坂玄瑞 > 確かに・・・
楠木正儀 > もし、北条高時が本当に馬鹿殿様であったなら、彼と共に八百人が潔く死んだでしょうか?
久坂玄瑞 > うちより一回り上…(あら
李淵淑徳 > 私と同い年・・・(え
楠木正儀 > ちなみに、高時が切腹した時は31歳でした・・
李淵淑徳 > 確か、元寇の論功行賞、土地相続の細分化・・・なんかがありましたね<社会的矛盾
久坂玄瑞 > 粘り気がないといえばねばりけがないような・・・
楠木正儀 > 彼は先祖に恥じぬよう、政治体制の改善をなそうと最後まで喘ぎながら努力したのですから・・
楠木正儀 > しかし、その矛盾の責任を北条高時一人に押し付けるのは酷すぎます
李淵淑徳 > 潔いといえば潔い<共に切腹
楠木正儀 > 彼が名君であろうがなかろうが、その頃は社会的矛盾が多すぎました・・
楠木正儀 > 本当に高時は運が悪かったとしか言い様がないですね・・
楠木正儀 > 北条高時らと共に切腹しました<長崎高資
楠木正儀 > やはり義貞軍の稲村ヶ崎からの突入が敗因となったと思います
李淵淑徳 > 長崎はどうなったんです?
楠木正儀 > 北条高時をはじめ八百七十余名が、自決した事により、鎌倉幕府の歴史は終わりました・・
久坂玄瑞 > 多くても司令塔が不在って感じですね・・・
楠木正儀 > 幕府軍の先陣を毎回努めた長崎二郎高重が東勝寺に戻った後、北条一族とその家臣は、次々に盃を傾け切腹していきました
李淵淑徳 > 少なすぎるってわけじゃないですね・・・となると・・・士気が低かったかな?<5万
楠木正儀 > そうですねぇ・・五万程度はいた考えているのですが・・
久坂玄瑞 > 鎌倉へのダイレクトアタックは痛いですよね<幕府にとって
李淵淑徳 > 鎌倉に幕府軍はどれくらいいたんですか?
楠木正儀 > 北条高時は、一族郎党とともに執権邸を脱出し、滑川東岸にある北条家の菩提寺である東勝寺にたてこもりました
楠木正儀 > 幕府は精一杯に反撃しましたが、義貞軍に稲村ヶ崎から突入され、幕府軍は総崩れになります・・
楠木正儀 > 新田義貞も鎌倉を攻撃
楠木正儀 > まもなく、足利尊氏が離反して六波羅探題を陥落させました
久坂玄瑞 > そうですね。
李淵淑徳 > 了解です^^>高時
楠木正儀 > では話を北条高時本人の方に戻しましょうか
久坂玄瑞 > 勝てば正義ですもんね・・・
楠木正儀 > この手法は三国志にもよく見られますね(笑)
楠木正儀 > そうですね、攻められた時は、少ない人数で多勢から頑張りぬいたことにしたり、攻める時も少人数で戦った事にすれば、それだけ優れていた事になりますから・・
李淵淑徳 > まあ、太平記の目的が目的ですし・・・楠木正成を名将にしたいという意図がよく見えるというか・・・^^;
楠木正儀 > それでは人心を余計失ってしまいます^^;<山ごと放火
久坂玄瑞 > 山ごと放火…
楠木正儀 > ある時は過大に、ある時は過少にするのは如何してなのでしょうか?
楠木正儀 > ひょっとすると真実かもしれませんが、この数は逆に過少ではないかと考えられます
楠木正儀 > ところで、これより後に起きた湊川の戦いでは、楠木正成の兵数は七百名となっています・・
楠木正儀 > そうなると、幕府軍=無能とはなりませんね
楠木正儀 > 三千の兵で落とせるような城ではなかったわけです・・<千早城
李淵淑徳 > 封鎖作戦も。。。山だと間道から補給できるか・・・
楠木正儀 > ちなみに千早城は、標高600m、三方が絶壁で後方の山路だけが金剛山山頂につながっているという要害堅固な山城でした・・
久坂玄瑞 > 小さい城を攻めるには妥当な数かもしれませんがね・・・
李淵淑徳 > 西国勢力を活用難しいですからねえ・・・こんだけ反乱起こされてるなら
楠木正儀 > そうです<多めに見た3万がさらに分散
李淵淑徳 > 3万がさらに分散してたわけですね
楠木正儀 > 畿内にいた幕府軍が三万名としても、それが各地に分散していたのだから、千早城にいた幕府軍が三千名ほどであったと考えられます
楠木正儀 > つまり、戦いは一局に集中していたのではなく、京都周辺の各地で交戦中であったのです
久坂玄瑞 > 西への影響力の低さ全快ですね・・・
楠木正儀 > 播磨国の赤松則村、大和国の高間兄弟、紀伊国粉河寺の僧兵、伊予国では土居・得能・忽那、備後国でも桜山入道らが次々と挙兵していました
楠木正儀 > 又、同じ頃、鎌倉幕府に反乱を起こしていた者は楠木正成だけではなく・・
楠木正儀 > 日本中の兵が一ヶ所に集まるはずはなく、全国に散在している事から、幕府軍が畿内に向かわせた兵数は、多目に見積もっても三万人くらいと考えられます
楠木正儀 > ですよねぇ・・百万は当時の武士の数を超えちゃってますから(笑)
李淵淑徳 > 軍記物にしても、もうちょっと信憑性のある数字出して欲しい(笑)
久坂玄瑞 > どうすれば百万になるのやら・・・
楠木正儀 > しかし、武士と言われる人たちは、そのうちの数パーセントだけですので、日本中の武士を全部集めても二十万、多めに見ても三十万なのです
李淵淑徳 > 300倍もさば読んでるのもある意味凄い^^;
楠木正儀 > その内、老人や子供を二百万とすれば、戦闘可能な男子は三百万となります
楠木正儀 > 半分は女性として、男の数は五百万人
久坂玄瑞 > すくな!
楠木正儀 > 日本の当時の人口は約一千万と言われています
楠木正儀 > では説明を加えますね
李淵淑徳 > 少ないだろうとは思ってましたけど、ほんとに3倍則だ(笑)
李淵淑徳 > 城攻めは攻者三倍則、兵糧立ちがもっとも効果的ですし(笑)
楠木正儀 > しかし、千早城を取り囲んだ幕府軍の数は、太平記に百万とかかれていますが、実際はせいぜい三千名ほどだったのです!
楠木正儀 > その様に、幕府軍は無能なように感じますよね<太平気風千早城攻防戦
李淵淑徳 > 百万の兵力使う必然性が全く(笑)
久坂玄瑞 > 兵糧攻めする気なかったんですかね?
李淵淑徳 > 禁句だったのかΣ(・(エ)・|||)え!
久坂玄瑞 > 周り囲んで待っとけよ・・・
楠木正儀 > 幕府軍に対しては?
楠木正儀 > それは禁句(笑)<三国志と似てる
久坂玄瑞 > でもこれを聞くとかなりの智略家だったんだなと思います。
李淵淑徳 > 感想というか、三国志の作者に特許料払う必要があるんじゃあ・・・^^;<内容
久坂玄瑞 > 楠木正成に対しては今まで、ガンガンぶつかって幕府を倒していたイメージがありまし。た
楠木正儀 > 幕府軍と楠木正成に対して<感想
楠木正儀 > どのような感想を持ちましたか?
久坂玄瑞 > 必死の篭城戦だったんですね・・・
楠木正儀 > 以上、太平気風「千早城攻防戦」でした
李淵淑徳 > どっかで聞いた話なんですよね(笑)<攻防戦の内容
楠木正儀 > 楠木正成は知略の限りを尽くして幕府方の大軍を翻弄し、この小さな城で100日間も戦い続けたのです!
楠木正儀 > 巨大な梯子を作って攻め寄せる幕府軍に対してその梯子を焼き落とすなど・・
楠木正儀 > また、甲冑を着せた藁人形を城の麓に並べて幕府軍を慌てさせたり・・
楠木正儀 > さらに、一重に見せかけた城壁は二重になっていて、攻め寄せた大軍に対して外側の壁を倒したため、幕府軍は一気に6千人以上も谷底に落ちました
楠木正儀 > 楠木正成軍は幕府軍を城近くまで引き寄せた上で、櫓から大石や大木を次から次へと落とすという奇襲作戦で幕府軍を大混乱に陥れました
楠木正儀 > 鎌倉幕府軍は小さな城だとあなどって攻めますが・・
久坂玄瑞 > 千VS百万・・・
楠木正儀 > 楠木軍は約千人の兵で千早城に立て篭もりました
楠木正儀 > 翌元弘3年(1333)吉野を攻略した鎌倉幕府軍は百万の軍勢を率いて千早城へと軍を進めました
楠木正儀 > 後醍醐天皇が隠岐島に流された元弘2年(1332)、吉野で挙兵した護良親王に呼応して、楠木正成も金剛山中腹に千早城を築いて再起を図りました
楠木正儀 > では話の展開上、太平記風に(笑)簡単に説明しますね
久坂玄瑞 > そんなにハードなバトルだったんですか?<盛り上がる
楠木正儀 > そしてそのダメ人間の親玉が最強のダメ人間・・という感じで<太平記
李淵淑徳 > 太平記では盛り上がる場面ですね<千早城攻防戦
楠木正儀 > 太平記では、幕府軍にはダメ人間ばかり揃っていたように書かれています
久坂玄瑞 > ですのでぜひご教授を!
久坂玄瑞 > すいません実は知りませんでした・・・<千早城攻防戦
楠木正儀 > 楠木正成が奇計、奇策を用いて幕府の大軍を寄せ付けなかった「千早城攻防戦」は物凄く有名ですが・・
久坂玄瑞 > 大丈夫です。頑張っていたというのは正直驚きですね。
李淵淑徳 > はい。馬鹿殿ではなかったにしても、ちょっと線が細い気もしますけど・・・^^;<高時
楠木正儀 > ここまでは宜しいでしょうか?
李淵淑徳 > 謎の千早城攻防戦・・・
久坂玄瑞 > そうですか。
楠木正儀 > 生没年は解かりませんが、そんなに高齢と言う訳でもなかったと思います<高頼
久坂玄瑞 > それではかなりのご高齢だったんじゃないですか?<高頼
楠木正儀 > ではこの討幕運動の中で、千早城攻防戦について話を展開していきたいと思います
楠木正儀 > 確か、高頼は高資の叔父です
久坂玄瑞 > 同じ長崎でも同族じゃないんですか<高頼と高資
楠木正儀 > 高時が、高資を退ける事が出来ない間にも多くの御家人達から不満の声が上がってきます・・
楠木正儀 > 長崎高頼は流罪となりました・・
楠木正儀 > しかし、この計画は事前に洩れて失敗・・
楠木正儀 > その決意を信頼の置ける長崎高頼に打ち明けます
楠木正儀 > 貞顕は金沢流北条家です
李淵淑徳 > 権力の奪取はどこも似た展開だ・・・(苦笑)
久坂玄瑞 > 高資はそんなことまで可能だったんですか・・・
楠木正儀 > そこで高時は、本気で長崎高資の排除を決意!
李淵淑徳 > どういう関係ですか?<高時と貞顕
楠木正儀 > しかし、長崎高資が、勝手に北条貞顕をその職につけてしまったのです
楠木正儀 > 病気の為に執権職を退いた(しかし得宗家の家督は維持したまま)高時は、後任に弟の泰家をあてるつもりでいました
楠木正儀 > そんなうちに、高時を憤慨させる事件が起ります
楠木正儀 > 結果的に全て失敗です<長崎高資を退ける
楠木正儀 > しかし、思うとおりにはいきませんでした・・
李淵淑徳 > 全て失敗ですか?<長崎を退ける
楠木正儀 > 高時は暗愚ではありません。彼は何とかして長崎高資を退け、善政を自らの手で成してみたいとしたことが何度かあります・・
李淵淑徳 > 関東武士の信用を失っちゃったわけですか
楠木正儀 > しかし、代々の執権が培ってきた物を、長崎高資の専横が崩壊させる事になります
久坂玄瑞 > ですね〜<名君揃い
李淵淑徳 > あまり悪評は聞かないですねえ・・・一時的に傍流が執権になっても得宗家を立ててるし
楠木正儀 > そのためか、関東武士達は幕府の執権政治に満足していたのです
楠木正儀 > これは、質実剛健の気質がみなぎり、質素倹約を重んずる北条氏の武士道精神がそうさせたのです
楠木正儀 > ところで、北条家の代々の党首は、いづれも名君でした
楠木正儀 > 飾り物として、北条高時が前面に出てますからね<高時の世評と高資の悪評が一緒になる
李淵淑徳 > 長崎の悪評と高時の世評が一緒になっちゃってるわけですか
久坂玄瑞 > 悪い噂流して、賄賂政治とは・・・悪人ですね・・・
楠木正儀 > 多くの御家人達がその様な政治に不信を持ち始めていくのです
李淵淑徳 > 随分マイナス点だ・・・<世評低下
楠木正儀 > 政策も人事も全て賄賂で左右され・・
楠木正儀 > その上、なんと幕府政治の実験者長崎高資は賄賂が大好きだったので・・
楠木正儀 > さらに、長崎高資が、高時の乱行を並べ立て、世評低下をあおったため、当然ながら高時の評判は悪くなっていきます・・
李淵淑徳 > 私と変わらんなあ(え<酒と女
久坂玄瑞 > 女と酒好き・・・
楠木正儀 > そうなんです、太平記に書かれている高時像(酒や女に溺れ、闘犬や田楽が大好き)はこの時期の、所謂青春時代の反抗期に当たる物なんです
李淵淑徳 > 馬鹿殿のイメージはそこからですか<ぐれた
楠木正儀 > そして、その生活は日ごとに荒んで行きました・・・
久坂玄瑞 > ぐれちゃったんですね・・・
楠木正儀 > 所謂ツッパリ青年になってしまうのです
楠木正儀 > そこで、飾り物的存在の高時は、憤懣を心の中にしまい込み・・
楠木正儀 > その上、高時は妻にさえ気をつかわなければならなかったのです
李淵淑徳 > イメージはつかめてきました・・・<内管領
楠木正儀 > 高資に反抗しようものなら皮肉を言われて嘲笑され・・
楠木正儀 > 有名な所ではそうですね<平頼綱
楠木正儀 > 高時の妻が、長崎高資の娘であったため、高時は舅の長崎高資に頭が上がらない・・
久坂玄瑞 > 平頼綱とかですか?<執事的存在
楠木正儀 > 高時の頃には長崎高資がその地位にいました
李淵淑徳 > 11歳では後見は確かに必要でしょうけど・・・大抵は成人しても口出しするような・・・(笑)
楠木正儀 > 北条本家、つまり得宗家には執事的存在として内管領がいます
楠木正儀 > そうです<操っていた
久坂玄瑞 > 操っていたがいたということですね<口出し
楠木正儀 > その為、後見人が事あるたびに口を出して来る事になります
李淵淑徳 > 8代の時宗の孫としては代が随分経ってるような<14代目
楠木正儀 > そうです<14代目
楠木正儀 > よって、子供の高時に政治の事など分かる筈も無く、単なる飾り物だったのです
李淵淑徳 > 高時は確か14代目ですね?
久坂玄瑞 > 若い・・・
楠木正儀 > この時は、まだ十一歳でした
李淵淑徳 > ふむふむ
楠木正儀 > そして、その後を継いだのが、今回のテーマである北条高時です
楠木正儀 > 時宗の子、貞時は幕府を立て直そうとしますが、志半ばで亡くなってしまいました
楠木正儀 > 元寇を機に多くの社会的矛盾を抱えだした幕府は徐々に力を弱めていきます
楠木正儀 > では最初に北条高時が執権についた頃から説明していきたいと思います
楠木正儀 > 成る程・・
久坂玄瑞 > ん〜先代にの方々に比べると見劣りするかなってかんじですね。
楠木正儀 > 久坂殿は北条高時について、どのようなイメージを持ってますか?
李淵淑徳 > そうですね。太平記の影響ある歴史物じゃ、真面目に執権の務めを果たさなかったイメージが強いですね
楠木正儀 > つまり執権として権力をもっていたのにも関わらず、遊びにうつつを抜かしたという所ですか?
李淵淑徳 > 遊びにうつつ抜かして、執権としての勤めを放棄してたって感じですね
久坂玄瑞 > こんばんわ〜
楠木正儀 > どう言う感じの「馬鹿殿」ですか?
小姓 > 久坂玄瑞殿、ようこそお越し下されました。
李淵淑徳 > 先行イメージはやはり、「馬鹿殿」ですね^^;<高時
楠木正儀 > まず、北条高時というとどのようなイメージがありますか?
李淵淑徳 > ことらこそ、ご教授お願いします^^
楠木正儀 > 宜しくお願いします^^
李淵淑徳 > はい^^
小姓 > 暫し、お待ちを!楠木正儀殿によって現在のお知らせが「歴史会「太平記の悪役達@〜北条高時〜」」に設定されましたぞ。
李淵淑徳 > 私はLAST LOGINが何故出ないのだろう^^;
楠木正儀 > では早速始めましょうか
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