<<< 陸軍の日露戦争(後半) >>>


小姓 > 豊臣秀長殿、またお越し下さいませ。
東郷平八郎 > でわ、お先に失礼します
武田信玄 > お疲れ様。
新田義貞 > お疲れ様でしたー!
小姓 > 暫し、お待ちを!東郷平八郎殿によって現在のお知らせが「近代史研究所第三回歴史会終了。ありがとうございました」に設定されましたぞ。
楠木正儀 > お疲れ様でした>幹事殿
保科正之 > お疲れ様でした。
東郷平八郎 > それでは
豊臣秀長 > お疲れです
東郷平八郎 > 次回の歴史会ではその日露戦争の海戦をお話ししたいと思っております。
保科正之 > しかし…その後の第二次大戦においても日本軍が同じミスを繰り返しまくっていると言うのはやはり、何かの因縁なのか… >兵站無能
豊臣秀長 > ふむ、有難う御座いました。大変勉強になりました^^
東郷平八郎 > 皆様、お疲れさまでした。
真田幸隆 > おつかれさまでした
東郷平八郎 > 2時間にも及ぶ長丁場。お付き合い頂いた皆様。ありがとうございました
真田幸隆 > ここで、海軍の登場ですね。
楠木正儀 > まぁこの時点でも、戦力的にはロシア軍有利とも言え、日本軍は将校の補充を含め、補給作戦の上からハルピン占領を断念。児玉源太郎らは講和条件の検討に入る訳ですね
東郷平八郎 > ということで、今回の歴史会はお開きとさせていただきます
保科正之 > ふむふむ。 >完全勝利はない
東郷平八郎 > 203高地、奉天会戦。数々の陸戦を経て。日露戦争の勝敗は「海戦」によって決することになります
東郷平八郎 > 日露戦争の陸戦は完全勝利というのは皆無に等しく、一つ一つの戦闘が激戦。日本は辛うじて勝利を収めてきたわけです
新田義貞 > 織田家や徳川家の荷駄隊は有名ですけどね
保科正之 > ガトーショコラ…(古)
楠木正儀 > 蜀の北伐状態ですかね(爆)<兵站
東郷平八郎 > さて!この会戦で日露戦争の陸戦は幕を閉じます
真田幸隆 > ガンダムの世界でも、ガトーが使っていますね<臥薪嘗胆
新田義貞 > 戦国時代ではかなり重要視されてましたけどねぇ…>民族性
真田幸隆 > という意味だそうです<臥薪嘗胆
真田幸隆 > その復讐が成功すると、今度は越王勾践がその恥を注ごうとし、つねに熊の肝をなめて、その苦さによって自分の中のうらみを持続させようとした
真田幸隆 > 古代中国の春秋のころ、呉王夫差(ごおうふさ)が、越王勾践(えつおうこうせん)を打って父のうらみを報じようとし、そのうらみを忘れないために、つねに薪の上に寝て身を苦しめた。
東郷平八郎 > 三国干渉の恨みがありますからね<臥薪嘗胆
保科正之 > もっとも、日本人と言う民族性を加味すれば仕方のないことなんでしょうけどねぇ… >兵站無能
真田幸隆 > ちなみに「臥薪嘗胆」とは
真田幸隆 > その当時、「臥薪嘗胆」という言葉が日本で流行っていたそうです
東郷平八郎 > 失礼。兵站能力の無さが響いているわけですね
東郷平八郎 > 日本軍の兵站能力の
楠木正儀 > 右翼は前進中、他の方面では日本軍の攻撃はことごとく撃退。多数の機関砲、捕虜を獲た。と<強気の報告
豊臣秀長 > ふむ・・・<勝利を収め・・・
豊臣秀長 > ありがとうございます^^>所長殿<へいたん
新田義貞 > 兵力があっても、それら隅々までに武器弾薬を行き渡らせる能力が無ければ…
真田幸隆 > クロバトキンはこの戦いの後、司令を解任されています
東郷平八郎 > 「へいたん」と読みます(^^)>秀長殿
東郷平八郎 > 日露戦争の山場の一つ。黒溝台の会戦も乗り切り、奉天会戦で勝利を収め
楠木正儀 > ついでに、面白い事に、デシノ少将はかなり強気の報告をしてるんですよねぇ
豊臣秀長 > なんと読むんですか?(汗)<兵站
東郷平八郎 > さて!かくして日露戦争で陸軍は辛うじて勝ってきたわけです
保科正之 > どうでしょう…逆に、もう少し兵力があったなら司令部にもまた、僅かではあれども弛みが出て、結果も逆になっていたかもしれませんし。
東郷平八郎 > 兵站には日本は無頓着なところがありますからねぇ
豊臣秀長 > 限界だったんですね<兵力
東郷平八郎 > なるほど
新田義貞 > 特に弾薬不足は深刻だったとか
楠木正儀 > そうですねぇ
新田義貞 > 兵力というより、後方支援能力、つまりは兵站ですね。それに余裕があれば更なる追撃が可能だったのでは、と思います
東郷平八郎 > まぁ、それは無理な話しなのですが・・<もう少し兵力があれば
豊臣秀長 > 取り逃がしたのは、人員、火砲、弾薬の不足がその致命的原因、と資料ではありますね
東郷平八郎 > もう少し、日本軍に兵力があれば戦況もまた変わっていたのではないでしょうか?
真田幸隆 > そうですね。
東郷平八郎 > ロシア軍を包囲し勝利を収めたわけですね
東郷平八郎 > 兵力的に見れば劣勢な日本軍が
新田義貞 > 日本軍の人的損害7万。ロシア軍は9万に捕虜2万でした
東郷平八郎 > ええ。奉天は占領したもののロシア軍はとりにがしました
豊臣秀長 > 奉天を占拠するところまでで終わったんですね
新田義貞 > しかしここで日本軍は息切れ、これ以上追撃することなく奉天会戦は終了となります
楠木正儀 > ふむ
東郷平八郎 > ふむ
新田義貞 > なるほど…>ゴビ砂漠の砂
真田幸隆 > おそらく、そのゴビ砂漠の砂だと思います<砂塵
新田義貞 > 9日にも砂塵が吹き荒れ、苦戦する第3軍が再び攻勢に転じたのは翌10日
東郷平八郎 > しかし、3月10日。ロシアの大攻勢もむなしく攻撃が遅滞していた各軍も奉天に迫ります
真田幸隆 > あっ!ゴビ砂漠ですね。多分・・・
保科正之 > 蒙古とロシア間の砂漠はゴビ砂漠ですね。タクラマカンはトルキスタン方面。
新田義貞 > ゴビ砂漠ですか?それともタクラマカン砂漠・・・?>なに砂漠
小姓 > 保科正之殿、ようこそお越し下されました。
東郷平八郎 > ゴビ・・・でしっけ?(汗)すいません不確かな知識です>真田殿
新田義貞 > 奉天西方では自軍の退却を援護するためにロシア軍が最後の大攻勢を掛けてきました。第1師団は潰乱敗走、第3軍は一時期潰滅の危機に瀕します
真田幸隆 > ロシアと蒙古の間の砂漠がありましたが、なに砂漠でしたっけ?
東郷平八郎 > 本土では冬将軍。異国の地では砂塵。自然とは恐ろしいです
東郷平八郎 > ロシアという国はつくづく自然に守られますねぇ
新田義貞 > 日本軍は猛烈な砂塵に見舞われ前進を阻まれてしまい、ロシア軍正面と右翼を取り逃がしてしまいます
豊臣秀長 > ふむ<蒙古の砂塵
真田幸隆 > 蒙古の砂ですね。
新田義貞 > ですね。しかし猛追撃を開始した日本軍の前に思わぬ敵が立ちはだかります。その名も砂塵!
東郷平八郎 > 満州軍総司令部は3月8日にロシア軍が退却に移ったことをしり全軍に追撃命令を下したそうです
東郷平八郎 > それが3月8日の出来事ですね
真田幸隆 > 退却をしたことによって当然日本軍は追撃をします
東郷平八郎 > それが先程述べた、急展開ですね<総退却
新田義貞 > あ、すいません右翼と正面です
新田義貞 > 日本軍左翼、右翼の正面に張り付いていたロシア軍が総退却は始めたのです
新田義貞 > しかし、7日深夜になってロシア軍が不可解な行動に出ます
東郷平八郎 > ほう
新田義貞 > 敵の小銃弾が飛び交う最前線に自ら飛び込んで指揮をとり始め、幕僚の懇願でようやく元の指揮所に戻るなんていう一幕もありました
真田幸隆 > ほうほう
新田義貞 > 日本軍総司令部はこの第3軍の遅滞を「緩慢」と見なして児玉参謀長が「猛進せよ」と命令すると、乃木大将は「俺は一生懸命やってるんだ!」と言わんばかりに激怒
小姓 > 豊臣秀長殿、ようこそお越し下されました。
東郷平八郎 > そして、事態は7日に急展開を迎えるわけですね
小姓 > 楠木正儀殿、ようこそお越し下されました。
東郷平八郎 > ふむ
新田義貞 > 猛進する第3軍の前にロシアの大軍が立ちはだかり、3月5日から大攻勢に晒されます
真田幸隆 > 奉天でのクロバトキンは誤認のオンパレードですね(笑)
東郷平八郎 > クロバトキンは誤認が多いですね。パニックになりやすいのでしょうか
新田義貞 > 更にクロポトキンは戦場を迂回してくる乃木第3軍を見て「あれが日本軍の主力か!」と誤認してしまい、またまた兵力をその前面に移動させます
豊臣秀長 > ふむ、<他方への増援で分散
真田幸隆 > 分散というより、偏ってしまったと言ったほうがいいでしょう。
東郷平八郎 > そういうところをみると日本軍の作戦はうまいですね
真田幸隆 > 左翼方面の鴨緑江軍、第1軍に増援を送ったために、第3軍の迎撃は不徹底だったそうです
東郷平八郎 > 兵力の分散というのは戦闘で一番避けねばならないことですからね
真田幸隆 > そうですね。3月1日が転機だと資料には書いてありますね。
新田義貞 > 総攻撃が開始しても各戦線でロシア軍の激しい抵抗に合って戦況は思うように進展しません。この頃にはクロポトキンも戦況を把握し、奉天東部へ振り向けた大兵力を西部に戻し始めます
東郷平八郎 > 真田殿の資料を見るに、3月1〜2日にかけての戦闘では日本軍が少々進展を見せたようですね
真田幸隆 > そうですね。ロシア軍も迎撃したけど、兵力が分散されてしまったせいで迎撃は不徹底だそうでした。
武田信玄 > ふむ。
豊臣秀長 > ここから本格的な攻撃に出るわけですね
東郷平八郎 > 戦況が動いたのは3月からですね
新田義貞 > 日本軍が総攻撃に移ったのは3月1日朝になります
新田義貞 > それ以後はしばらく戦線は膠着します
真田幸隆 > ほうほう
東郷平八郎 > 奉天会戦の初戦は攻撃の進展が見られなかったようですね。各軍順当に闘ったそうです
新田義貞 > クロポトキンも日本軍左翼に攻撃を仕掛けるべく兵力を集中していましたが、更に乃木第3軍が動くのを見て「奉天東部への総攻撃を狙っているのでは?」と錯誤してしまい、日本軍の牽制攻撃は成功します
真田幸隆 > ちなみに先ほど見せた資料で、軍人の名前をクリックするとその軍人のプロフィールが出てきます。
豊臣秀長 > はい<奉天会戦に集中
真田幸隆 > 了解しました
東郷平八郎 > ええ、話しを奉天会戦に集中させましょう
新田義貞 > 中国の鉄道は日本より広いと読んだ事があります…ってだいぶ脱線してしまいましたな(汗)>中国近辺の鉄道
東郷平八郎 > なるほど。
新田義貞 > クロポトキンは「日本軍は左翼に攻撃を集中してくる」と信じていたからです>混乱
真田幸隆 > となると、中国近辺の鉄道は狭いのでしょうかね?日本も設計に絡んでいたから
新田義貞 > そこまでは判りかねますが…当時の日本の鉄道のレール幅は欧米のそれより狭軌でした>どのくらいのレール幅
新田義貞 > 中央の鴨緑江軍(第3軍)が中央突破を図るべく積極的行動を取るのを見たロシア軍総司令官クロポトキン大将は混乱します。
東郷平八郎 > この資料を見てわかるように戦力に差がありますね
真田幸隆 > その当時の兵器輸送のおそらく広いレール幅だったのでしょうかねえ。
真田幸隆 > こんなものをネットで見つけました→Web Site Address!!
東郷平八郎 > 確かに、日露戦争後半の陸戦で最大の戦闘ですからね<日露戦争の関が原
新田義貞 > カーブでひっくり返ったら大事ですしねぇ(笑)?広いレール幅
新田義貞 > 大山総司令官は「日露戦争の関ケ原」と訓令しています
真田幸隆 > 高速運転をする鉄道は広いレール幅を採用するそうですね。
東郷平八郎 > 第一軍が左翼。第二軍が右翼。そして第三軍が中央というかたちです
新田義貞 > >奉天会戦
新田義貞 > 日本軍の作戦は「両翼を広げて牽制し敵の注意を逸らし、その間隙を突いて中央突破を図る」、というものでした
新田義貞 > 新幹線の場合は高速時の安定性確保も絡んでいるようですね>レール幅
豊臣秀長 > はい、<メインたる奉天会戦に
真田幸隆 > 事実、日本だと新幹線や一部の私鉄では普通(?)より広いレール幅だそうです
東郷平八郎 > 時期は1905年。2月のお話しです。
新田義貞 > さてさて、話は本日のメインたる奉天会戦に移ります
新田義貞 > 広いほうがより大きい荷物を積載できますが、その国々の事情に合わせるのが常のようですね>レール幅
豊臣秀長 > ふむ・・・・<ロシアの勝利
東郷平八郎 > それは難しいでしょうねぇ。<あれ以上の戦術を日本が考える
真田幸隆 > 兵力的に考えても、もしかすると永沼挺身隊以上の戦術を日本が考えていたら話は変わりますが。
真田幸隆 > レールの幅って広いほどいいのでしたっけ?
東郷平八郎 > う〜ん、やっぱりそういう結果になりますか・・<ロシアの勝利
真田幸隆 > まあ、多分ロシアが勝っていたでしょうね。
真田幸隆 > うーん・・・<勘違いがなかった場合
新田義貞 > 鉄道輸送の出来ない戦車は兵器として失格とも言われたり…
新田義貞 > 戦車や火砲などは設計の際に鉄道のレール幅に大きく左右されたりします
新田義貞 > まぁ、鉄道による兵員・物資輸送は今も昔も重要です
東郷平八郎 > 勘違いがなかった場合はどうなってたでしょうか?
真田幸隆 > 今でも韓国では軍の車や戦車を貨物列車に乗せていますしね
新田義貞 > ロシア軍司令部内の対立とも囁かれていますね>勘違い
新田義貞 > この後日本軍は鴨緑江軍、ロシア軍は欧州方面からの増援を受け戦力を整備します
真田幸隆 > 軍事輸送列車も結構走っていたそうですしね。
小姓 > 真田幸隆殿、ようこそお越し下されました。
豊臣秀長 > ロシアの勘違いがあったそうですね<奉天に退却
東郷平八郎 > 輸送用の車というのも無いし、道もないですからねぇ。確かに。<鉄道は輸送の要
新田義貞 > 当時の鉄道は輸送の要ですからね
新田義貞 > 一時崩壊の危機に直面した日本軍ですが、28日午後8時にロシア軍が奉天に退却したために虎口を脱することになります。
真田幸隆 > なんか日本軍ってよく鉄道爆破していますよね・・・
東郷平八郎 > もし、日本が黒溝台でロシアに敗北を喫していたら新しい国家が成立していた。なんていう学者もいますからねぇ。中央に積極攻勢がなくてなによりです
真田幸隆 > 後の講和交渉において日本側に有利な条件を提供したそうですからね<永沼挺身隊の功績
東郷平八郎 > ええ、素早い行動だったようですねぇ。奉天会戦を日本の勝利に導いたなんて評価さていますねぇ<永沼挺身隊
真田幸隆 > 蒙古経由2000キロ、75日間の挺進行動
東郷平八郎 > なるほど
新田義貞 > この時ロシア軍は左翼だけでなく中央にも積極攻勢を掛けていれば、日本軍を壊滅に追い込む事が出来たと言われています>黒溝台
真田幸隆 > 要は鉄道爆破ですね。
新田義貞 > 平均気温零下20度、鮮血を雪を紅く染めながら日本軍は3個師団を逐次投入し必死に防戦します
真田幸隆 > Web Site Address!!←これに簡単にかいてはありますけどね
東郷平八郎 > いたたた。詳しい資料がありませんね。<永沼挺身隊
新田義貞 > どうでしょう…何方か救援求む(爆)>挺身隊
真田幸隆 > そうそう、永沼挺身隊の鉄橋爆破については?
小姓 > 豊臣秀長殿、ようこそお越し下されました。
真田幸隆 > まさに「一進一退の攻防」ですね。
東郷平八郎 > 日露戦争の山場でしたね。<逆襲をうけたり撃退されたり
山本勘助 > 御館様、御待ちしておりました!
新田義貞 > 第8師団はロシア軍の攻勢を逆手にとって突出した部隊を包囲しようと策するも、ゆっくりと前進するロシア軍はこれを撃退し、逆襲を受けるという有様
新田義貞 > 「厳寒期にロシア軍の攻勢はない」と判断していた日本軍司令部は大きく狼狽し、司令部総予備の第8師団を急派。
真田幸隆 > 「却する者は日本軍の弾丸に倒れず退却を罰する剣の錆となるであろう。」と言ってロシア兵を鼓舞したそうです<クロバトキン大将
真田幸隆 > ロシア軍の指揮官はクロバトキン大将です
東郷平八郎 > グリッペンベルグ大将の率いる第2軍ですね
新田義貞 > 明治38年1月25日未明、ロシア軍が日本軍最左翼に襲い掛かりました。これが奉天会戦の前哨戦ともいえる黒溝台の戦いです
新田義貞 > そうですね。火砲も1200門を備え、日本軍(25万、990門)に対しかなりの優勢を誇っていました
真田幸隆 > ロシア奉天駐留軍は総勢32万という兵力だそうですね。
新田義貞 > 鴨緑江軍はくすぶる旅順から北上しますが、このころロシア軍は大規模攻勢を企図していました
新田義貞 > 旅順陥落後、大本営は第3軍を改編して鴨緑江軍を編成します。
真田幸隆 > で、今回は?
東郷平八郎 > 今回の歴史会では、その後の戦闘。つまり奉天会戦をメインとしてお話しするわけです
東郷平八郎 > と、まぁ長々と語りましたが203高地。前回の歴史会の内容を振り返りました
東郷平八郎 > 児玉作戦の戦闘は12時間にも及ぶ激戦の末。日本軍が203高地を落とし勝利を収めるわけです
新田義貞 > 総参謀長が現場に向かう途中第3軍は一度203高地を奪取しますが、短時間に奪回されています
東郷平八郎 > 決行です。失礼。
東郷平八郎 > これに乃木将軍の参謀陣は猛反発をしますが児玉参謀総長に一喝され、ついに児玉作戦が結構されます
東郷平八郎 > 児玉参謀総長の作戦は近代的な作戦で28サンチ砲で敵の反撃を食い止め突撃を行なうというものでした。
東郷平八郎 > 児玉参謀総長は自分の持ち場を離れ旅順に訪れます。そして第三軍の指揮権を「預かり」203高地攻略の指揮をふるいます。
真田幸隆 > Web Site Address!!
真田幸隆 > こんな資料をネットで見つけました
東郷平八郎 > その人物こそ、児玉参謀総長です。
真田幸隆 > 203高地か・・・
東郷平八郎 > このどうもこうもいかない戦況に一人の人物が現れます
東郷平八郎 > そして、203高地への突撃も失敗しているうちに死傷者はなんと56000名という数になってしまいました
東郷平八郎 > これにより、乃木将軍が203高地を本格的に攻撃しようとしたころには203高地は完全な防御体制となっていました。
小姓 > 真田幸隆殿、ようこそお越し下されました。
東郷平八郎 > 一応、乃木将軍は第二回目の突撃の時に203高地は攻撃目標としたのですが主力を回さなかったため、かえってロシアに203高地という旅順要塞の弱点を気付かせる結果となりました。
新田義貞 > 元々この28サンチ砲は東京湾の防備の為に配備されていましたが、攻城砲としても有用だったようです
東郷平八郎 > まぁ、しかしこの散々な結果についに乃木将軍も203高地の重要性を認めることになるのです
東郷平八郎 > この悲惨な戦果に対し、海軍は乃木将軍に203高地の攻略を提案します。そして東京からは28サンチ(センチ)砲のを輸送するという案も出ます
東郷平八郎 > 引き続き第二回の突撃では死傷者5000人。
東郷平八郎 > 第一回の総突撃では死傷者15000の尊い犠牲を出しながらも要塞にはかすり傷一つつけられない悲惨な結果になります
東郷平八郎 > そして乃木将軍率いる三軍は計3回(4回と言っても良い)の総突撃を行ないます
東郷平八郎 > この要塞に対し乃木将軍は銃剣突撃(全軍総突撃)の作戦を採用。
東郷平八郎 > そうです。旅順の要塞はこのころ分厚いコンクリートに被われ、機関銃を完全装備した近代的な強固な要塞となってました
新田義貞 > 第3軍の目標は東洋一の大要塞がある旅順ですね
東郷平八郎 > そして有名な旅順要塞の激戦が始まるのです
東郷平八郎 > 南山要塞攻略後、いよいよ乃木将軍率いる第三軍がリャオトン半島に上陸。
小姓 > 今川氏真殿、ようこそお越し下されました。
東郷平八郎 > この戦闘で死傷者四千三百八十七名を出してしまうのです
東郷平八郎 > この戦いで日本軍はロシアの機関銃や鉄条網に苦戦し
東郷平八郎 > その後、前回の歴史会では南山の要塞戦の話しとなります
東郷平八郎 > 日本は1904年。2月10に帝政ロシアに正式に宣戦を布告します
東郷平八郎 > それでは、前回の歴史会の内容を振り返りましょう
東郷平八郎 > 今回の歴史会では、陸軍の日露戦争(後半)ということで203高地の激戦以降の戦闘をお話し致します。
新田義貞 > わーわー(観客)
東郷平八郎 > このたびも、幹事は私。東郷が務めさせていただきます。
新田義貞 > 了解しました>奉天メイン
東郷平八郎 > さて!歴史会を始めさせていただきます!
東郷平八郎 > 海戦は次回の歴史会ですね。
小姓 > 暫し、お待ちを!東郷平八郎殿によって現在のお知らせが「近代史研究所歴史会「陸軍の日露戦争(後半)」開催中!」に設定されましたぞ。
新田義貞 > 奉天会戦と日本海海戦がメインという訳ですね
東郷平八郎 > さて、時間ですね。
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