「歴史会・毛利元就、厳島にて陶晴賢を討つ」by上杉景勝
小姓 > 暫し、お待ちを!上杉景勝殿によって現在のお知らせが「歴史会終了!!」に設定されましたぞ。
蒲生秀行 > 次回はやはり尼子に?
上杉景勝 > 時に何か気になる問題点などありませんでしたか?
上杉景勝 > そうですか、ありがとう御座います、こんな時間まで
井伊直政 > 私も特にありません。ありがとうございました(^^)
上杉景勝 > 総てに答えれるとは限りませんが。
蒲生秀行 > いえ、特に無いです。面白かったです(^^)
上杉景勝 > いちを厳島物語は完結しましたが、質問等御座いましょうか?
上杉景勝 > いささか、登場人物に疑問の残る大河でしたね。
上杉景勝 > そして、それから1年半ほどで、大内義長を自害に追いこみ、領土が一気に拡大されました。
蒲生秀行 > 何気に自害じゃ無かったですよね(^^;<大河
上杉景勝 > 大河では元々こうなる事が定められていたと解釈されてました。
上杉景勝 > で、陶の辞世の句が『何を惜しみ何も恨みん 元よりも この有様の 定まれる身に』です。
上杉景勝 > 二日も持ったのは凄いですよね、食料どうしたんでしょうね。
蒲生秀行 > それでも1/4が死亡とは・・
井伊直政 > そういやそうですね。逃げれませんからね
上杉景勝 > そして、陶晴賢の首が中々見つからなかったが、10月四日に、陶の草履取りから陶の首のありかがわかったそうです。
井伊直政 > 結構多いですね<戦死者
蒲生秀行 > ああ、そうか・・・溺死もいますもんね
蒲生秀行 > 死者4780人!!煤i ̄□ ̄|||)
蒲生秀行 > まる2日は持ったんですね
上杉景勝 > この合戦での陶(大内)軍死者は4780人にも上ります。
上杉景勝 > そして、10月三日に弘中勢も力尽き討たれました。
小姓 > 明智光秀殿、またお越し下さいませ。
上杉景勝 > 籠城できる場所があったみたいですね、厳島は
井伊直政 > なるほど
上杉景勝 > 弘中勢は約500だそうです。
上杉景勝 > 厳島の神殿は重要でしょう、毛利家は信心深いと思われます。
蒲生秀行 > 長久手の時の掘秀政みたいなもんですな<弘中勢孤軍奮闘
上杉景勝 > 良くはわかりませんが、それだけ優れていた人物だったのでしょうね。それともすることはちゃんとこなす人物だったのでしょうか。
井伊直政 > よっぽど大事だったんでしょうかね?<神殿
上杉景勝 > 弘中が民家に火を放ちそれが神殿に飛び火しそうなのを見て、吉川元春が敵討伐を後にして、消化をしました。
蒲生秀行 > ある程度予見してたのでしょうか?<弘中勢
井伊直政 > ふむふむ
上杉景勝 > こんな中弘中勢だけが、厳島である程度まともに戦ってました。
上杉景勝 > 「何を惜しみ何も恨みん 元よりも この有様の 定まれる身に」と辞世の句を残して自刃しました。
上杉景勝 > 最終的に小早川軍に追い詰められ、自害することになります。
上杉景勝 > 陶は自害しようとしましたが、三浦房清に諌められ、厳島からの脱出をはかりましたが、船が無く。
上杉景勝 > 陸で毛利軍が有利に事を運んでる時、村上水軍も海上戦で陶方の水軍を敗り、陶晴賢が脱出できないようにしました。
上杉景勝 > これに宮尾城から兵がでて全軍で挟み撃ちにしました。
上杉景勝 > まあ、大軍は混乱し、指揮もできないほどだった見たいで。
上杉景勝 > 前日の嵐で油断していたこともあり、そこを毛利軍はつき、一挙に敵本陣へ突入しました。
上杉景勝 > 厳島の地理がわからないので、布陣の詳細は除いてと…
井伊直政 > 大胆ですねぇ<敵の中に入っていった
上杉景勝 > 確かに連環の計みたいですね。
上杉景勝 > 小早川隊は風が強い為に、予定の位置に渡海できずに、敵味方の区別もつかないぐらいでしたので、陶軍の援軍を装って、厳島鳥居辺りに、敵の中に入っていったみたいです。
蒲生秀行 > 苦肉の策も使ってますしね(爆)<元澄内応<三国志みたい
井伊直政 > 三国志の連環の計みたいですね<鎖で縛る
上杉景勝 > そして、渡海してわけですが、この時小早川隊が注目されますね。
明智光秀 > うむうむ
井伊直政 > ある意味元就は賭けに出たんでしょうか?
蒲生秀行 > 陶軍は嵐で船が沈まないように鎖で縛ってたらしいですもんね<危険度MAX
井伊直政 > そのまま沈んでたらもとも子もありませんね・・・^^;
上杉景勝 > 「この暴風雨こそ天のご加護の御しるし。敵が間違いなく油断している今がまさに出陣の好機である。この機を逃してなるものか」元就の言葉で兵の士気が上がり渡海決行されたそうです。
上杉景勝 > そうです、嵐の船は危ないです、元寇はそれで救われたと言います。
上杉景勝 > その嵐から、船を出すのは無理だと船頭達から声が上がり、渡海延期が持ちあがりましたが、元就は断固として言を曲げずに渡海を決行させました。
蒲生秀行 > 嵐の中強行したんですね
上杉景勝 > 厳島の合戦が起きたのが10月1日ですので、当然この日に厳島に渡ることとなりました。
上杉景勝 > そうですね、三途の川の渡し舟みたいなもんですね>勝利したので三途の川ではありませんでしたが。
井伊直政 > ようするに渡し役みたいなもんなんでしょうか?<1日だけ貸してくだされ
上杉景勝 > それから色々と打ち合わせをしたと思われまして…九月の晦日に嵐が起きます。
蒲生秀行 > ふむふむ
上杉景勝 > 見たいですね。船は全部で500ぐらいですかね。
上杉景勝 > 元就は村上水軍への使者に「1日だけ貸してくだされ。宮島に渡ればお返し申す。」と言ったそうです。
上杉景勝 > 村上水軍が毛利に味方についた理由に一つの発言があるそうです。
蒲生秀行 > 船の数は変わらなかったんですね
上杉景勝 > ちなみに、毛利本拠の防衛は元就娘婿の宍戸驩ニが800の兵での防衛だそうです。
上杉景勝 > ちなみに、小早川水軍(70から140)村上水軍を入れて、陶、大内水軍と同等の船数みたいです。
上杉景勝 > 厳島合戦三日前程に村上水軍が援軍としてはて参時ました。
蒲生秀行 > ほほう<鉄砲
上杉景勝 > さて、陶が厳島に渡ったことから、元就も厳島に渡らね事から、前前から交渉していた、村上水軍を味方に引き入れようとしてました。
井伊直政 > おおっ!遂に鉄砲が出ましたか
上杉景勝 > この合戦で始めて、鉄砲を使われたと言います…。
上杉景勝 > で、陶は兵を厳島に渡し、宮尾城を攻めさせます。
上杉景勝 > で、結局桂元澄の内応もあって、厳島の渡海を決意しました(大内氏は安芸進行時は厳島に渡海は習慣です)
上杉景勝 > これで、厳島に来なくなったら、困る元就は策略をもって弘中を除こうと、毛利に通じてるように見せかけましたが、弘中が早くに、陶に誓書を出したので事無きを得ました。
上杉景勝 > 大内譜代の弘中(陸で攻める)と陶家譜代の三浦房清(海に渡る)が代表として
蒲生秀行 > 可哀相に・・・<信じた
上杉景勝 > 順序が少し違いますが、陶が決意する前から、厳島に渡るかどうか、陶内部で議論されてました。
上杉景勝 > そうです、色々誓書等を書き、やっと陶は元澄の内応を信じたみたいで(元澄の父、広澄が毛利宗家家督相続(元就・元綱)の政略で、広澄が死んだと言うことも役に立ってる)厳島にわたる決意をしたそうですね。
上杉景勝 > そこで、又敵を欺くには味方からで、桂元澄を陶に偽り内応をさせました。
蒲生秀行 > そういえば、元澄から陶に、元就が厳島に兵を出したら裏切って背後をつくって言ってましたね
上杉景勝 > 良く言われる兵力は、陶2万、毛利四千、戦線の拡大しない場所で決着をつけるないと勝てないので、なんとしても厳島に陶軍をおびき寄せようとしました。
蒲生秀行 > 敵を欺くにはまず味方からってやつですな
上杉景勝 > そのあそこを取られたら毛利は終わりで、厳島におびき寄せようとしたのですね。
上杉景勝 > そうですね、立てた理由は誰にも漏らさなかったと思われますが…桂元澄を除く
蒲生秀行 > 建てたの失敗だったとか、あそこ取られたら毛利は終わりとかしきりに噂流したのでしたね
井伊直政 > 「あんな小城では囮にもならない!」とか言う理由でしたっけ?<重心反対
上杉景勝 > この城に大内から降った将と、吉川小早川の精鋭500を入れたといわれます。
上杉景勝 > 確か城姪が宮尾城、陶の部隊を厳島に引き連れる囮の城です。
上杉景勝 > この築城に関して、多くの重臣が反対しましたが、元就はそれらの意見を聞かずに築城させました。
上杉景勝 > そして、元就は厳島に城を築きます。
蒲生秀行 > 1石=10斗で1俵=4斗ですから2.5俵で正解みたいです
上杉景勝 > 陶は疑心暗鬼になってたといわれますね、その当時は。
上杉景勝 > まあ、結局は反対して弘中に江良殺害を命じられて、江良が殺されます。
明智光秀 > 2,5×1500=3750。それが、安いのか…。なるほど。
蒲生秀行 > ほう
上杉景勝 > 大内家譜代の家臣で、陶と義隆の間で事あらば、味方するように義隆が使者とした人物だそうです。
上杉景勝 > 江良殺しの反対者の名を弘中骭唐ニ言います。
上杉景勝 > それもそうですが、勝てると決まった状況でもありませんし…300貫が安いのも事実なんでしょうね。
上杉景勝 > よく知りません^^;<1石
上杉景勝 > その間者から、陶にそのことが報告されました、そして陶が元就の策略通り、江良を討つこととなりますが、当然反対者もいました。
蒲生秀行 > 2.5俵くらいでしたかね?<一石
蒲生秀行 > でも謀略ならいいんですが山口手に入ったら領地も各段にふえるんだからもう少し気前良くても良いような気もしますね<和が乱れるのが嫌
上杉景勝 > で、まあ陶の間者を逆利用し、江良が毛利に寝返っていると言う書状を、元就がその間者に見せた模様で
明智光秀 > 思いっきり馬鹿な質問ですが、1石で米ってどのくらい取れるものなんでしょう?
井伊直政 > ちょっと安っぽいような気もしますかな?<1500石
上杉景勝 > 和を乱れるのが嫌だったんでしょうね(多分)井上一族と言う一族が毛利氏にいた事から。
上杉景勝 > 一貫を5石と考えると1500石ですね<毛利譜代の桂や福原も同領ぐらいです。
蒲生秀行 > ケチ臭い話ですな(爆)<寝返り交渉が難航
上杉景勝 > しかし!、元就は交渉が難航し、江良に誠意又は利で動くみたいなので、家中の和を乱す事があり、又有能であった為に、陶に江良を殺すように仕向けました。
井伊直政 > 石高に直すとどのくらいですか?<300貫
上杉景勝 > 寝返りとして、300貫を毛利家として提示しましたが、江良はそれでは少ないと不服にし、交渉は難航しました。
井伊直政 > そうだったんですか<江良
蒲生秀行 > なるほど、知らない仲じゃなかったわけですな<元就といっしょに安芸鎮圧
上杉景勝 > 有能だったみたいですね、力的には、義隆を髢[が弑した事により安芸が乱れた時に、毛利と共にその鎮圧に尽力したそうです。
井伊直政 > 江良からという説もあったんですか!
上杉景勝 > 江良から寝返りの交渉をしてきたとも、いわれます、これもどっち(毛利・江良)が先かわかりません。
井伊直政 > 陶家の中でも力持ってたんですか?<江良房英
上杉景勝 > 元就の謀略のターゲットは陶家臣、江良房英に向けられます。
蒲生秀行 > まあ、元々気に食わなかったからねぇ・・・一度疑心を持っちゃうとダメかもね
上杉景勝 > 尼子晴久が新宮党を滅ぼした後、尼子は軍の再建がされるわけですが、それは置いといて。
蒲生秀行 > いや、2〜3度はあったみたいですよ<書状
蒲生秀行 > そんか感じですね<毛利は主導権
井伊直政 > いや、何回も書状を出したと思いますよ
上杉景勝 > 結構急なんですね>実際のところは1回で晴久が変わると思われますか?
明智光秀 > こんばんは
小姓 > 明智光秀殿、ようこそお越し下されました。
上杉景勝 > 書状的に毛利が新宮党より主導権を握っているみたいな書状だったらしいですよね。
蒲生秀行 > それを晴久が見ていままでの疑念が一気に確信に変わったと書かれてますね
蒲生秀行 > それには「我等こと、この度毛利家へ味方し仕り候」と書かれてあって、後は毛利家賛美の言葉が書き連ねてあったみたいです
上杉景勝 > 冨田城内ですか。
上杉景勝 > 飯を出さない事で体力を削いだそうですよ。
井伊直政 > なるほど
上杉景勝 > 主だった重臣もいたからで、その者達を巻き込まない為ではないでしょうか?
蒲生秀行 > 10日後くらいに月山富田城内の一般の人間は立ち入れ無い所で落とし文が見つかったそうです
井伊直政 > 早速質問ですが、何故評定の時に殺さなかったんでしょうか?
蒲生秀行 > まず先ほどの罪人に持たせた手紙の発見の後ですが、
上杉景勝 > 質問あったら言ってくださいね、井伊殿(答えれるとは限りませんが^^;)
上杉景勝 > お願いします。
上杉景勝 > その帰り道に、晴久の手のものによって、召し抜きの新宮党の国久等が討たれました。
蒲生秀行 > あ、ありました!小説ですけど良いですか?<経緯
上杉景勝 > しかし!、これが晴久の計略の一環で、その日晴久は現れず、昼食さえですに、評定も無く重臣達は帰路につきました。
上杉景勝 > そして、あるひ新宮党の党首や主だった重臣を集め、評定を開こうとしてました。
井伊直政 > そうですね、特にありません(^^)
上杉景勝 > まあ、かいつまむと、色々と晴久の疑い心を満たす事があり、晴久は新宮党を打つことになります。
上杉景勝 > そうですか、じゃあ、簡単にそこを勧めたいと思います。
蒲生秀行 > そこまでの詳しい経緯はちょっとわからないのですが(^^;
上杉景勝 > 井伊殿今までで何か質問あるでしょうか?
上杉景勝 > できれば、討たれる日の評定までが・・・といいながらお任せします
蒲生秀行 > 討たれ方で良いですか?
蒲生秀行 > ええっと
上杉景勝 > 討つ評定辺りは覚えてるのですが…。
上杉景勝 > 討つまでの経緯を少し忘れましたが、蒲生殿御存知ですか?
小姓 > 曹操孟徳殿、またお越し下さいませ。
曹操孟徳 > また歴史会に参加しようと思います、では^^
上杉景勝 > それで色々と調べた結果・国久が動員した兵が了承を得た、3500より700多い、4200でありました。
蒲生秀行 > なるほど<領土の事も
曹操孟徳 > では、大した発言をしていませんがそろそろ落ちまし^^;
上杉景勝 > すいません、良く覚えてませんが、領土の事も書かれていたみたいですね。
上杉景勝 > その書状には、まあ、国久の謀叛の証拠のような事が書かれていたわけで、流石にいきなりは引っかかりませんでした。
蒲生秀行 > かねての約定通り兵を集めるのに成功しました。いつでも尼子本家を裏切れますよ♪って内容でしたかね?<書状
曹操孟徳 > 彼は真面目な人なんでしょうね〜<光成
上杉景勝 > 三成の使いこなしは難しそうですね(^^;)
上杉景勝 > そして、書状が尼子当主晴久に渡るようになります。
蒲生秀行 > 俗に言う傲慢不遜な輩というのは好き勝手する人間=大将の言う事を聞かない人間ですからその観点でいくと三成はあてはまらないですよね
上杉景勝 > そして、誰にかはわかりませんが、その罪人を殺させます。
曹操孟徳 > でも光成は少々可憐な感じがします。
上杉景勝 > まず、元就は死刑確定の罪人に書状を持たせ、尼子の領土へ放ちます。
蒲生秀行 > 彼は自分に厳しく、人にも厳しいから・・・(爆)<三成でも
上杉景勝 > そして、元就は色々と策略を練っていくわけですが。
蒲生秀行 > まあ、戦略としては当然でしょうね。陶と毛利が戦うのならいくらでも隙できますもんね<動員願い
上杉景勝 > うん、やっぱり人によるんでしょうね<石田三成のような人物でさえも傲慢不遜といわれてますしね。
蒲生秀行 > それをいかにして抑えるかがトップの力量ですね<権力を持つと傲慢不遜になりやすい
上杉景勝 > 新宮党国久は対毛利(だと思う)に3500の兵を動員することを晴久に言って,了承を得たそうです。
井伊直政 > やっぱ権力を持つとこうなるんですかね<傲慢不遜
上杉景勝 > ああ、そうでしたね、大河では嫁さんに殺されてましたね<晴久
上杉景勝 > そして、やはり井上一族と同じくして、傲慢不遜な行動が多かったそうで、之を元就は利用したわけです。
蒲生秀行 > 晴久がもてあます程威張ってたみたいですね。国久は晴久の舅みたいですし
上杉景勝 > 尼子新宮党の長は、尼子家当初の叔父、尼子国久でした。
上杉景勝 > 元就はその後家中の支配体制を変革させていくわけですが、この井上一族と尼子新宮党がにたような状況であったわけです。
蒲生秀行 > 良くある事ですね我が蒲生家にもそんな奴いました(苦笑)<傲慢になり家中の和を乱す
上杉景勝 > そして、井上一族は元就によって多くを誅殺されます。
上杉景勝 > 井上一族は戦功があり、傲慢になり家中の和を乱していました。
蒲生秀行 > はい<井上一族
蒲生秀行 > でた!新宮党!!
上杉景勝 > 少し話しはずれますが、毛利家には井上と言う家中最大の勢力を持つ家がありました。
上杉景勝 > 陶と吉川元春もそうですね。
蒲生秀行 > そういえば、元就と晴久って一応義兄弟の契りを結んだとか・・・もう雲散霧消してるだろうけど(尼子の傘下の時)
上杉景勝 > はい、吉川家です、応仁の乱で活躍したと言われる、鬼吉川の娘ですね。
上杉景勝 > 元就は当時尼子最強軍団と目された、尼子新宮党に目をつけました。
蒲生秀行 > 妻の叔母というと吉川家ですかね?
上杉景勝 > 元就の妻の叔母が尼子の誰かに嫁いでます。
上杉景勝 > 毛利と尼子は多少の姻戚関係にありました。
小姓 > 竹中半兵衛殿、またお越し下さいませ。
竹中半兵衛 > では
竹中半兵衛 > そろそろ落ちます
竹中半兵衛 > なんか邪魔をしにきたみたいですな・・・
上杉景勝 > 元就は陶と対峙するには尼子氏が邪魔だと思い、尼子の力を削ぎにかかります
曹操孟徳 > 初めまして上杉殿^^
曹操孟徳 > 今晩上、初めて歴史会に参加します^^
上杉景勝 > あっ吉見と陶の講和の年月を調べるの忘れた。
小姓 > 曹操孟徳殿、ようこそお越し下されました。
竹中半兵衛 > 戦略面、指揮面において、元就は円熟していますね
蒲生秀行 > 地の利は毛利にありますしね<包囲
井伊直政 > 包囲したってことは案外少なかったかもしれませんね
蒲生秀行 > あっさり返り討ちにあったんですな・・・<宮川勢
竹中半兵衛 > ふむふむ
井伊直政 > どのくらいの軍勢だったんですか?<宮川勢
上杉景勝 > この軍勢の兵は3000であったり6000であったり、具体的にはわかりませんが、毛利が包囲して勝利したそうですから、それほど兵力差が無いとも思われますが、それまでの元就の能力を見ていた陶が同等の兵で討つことが可能と見たのか…どうか(速い話し、よくわからんって事です。)
上杉景勝 > 陶も吉見氏を攻めながら、毛利を討つ別働隊を編成し、軍勢を送ります、これの大将に宮川房長という人物です。
蒲生秀行 > 有効な手段ですが、エグイですね(^^;<侵略すること火事場泥棒の如く
竹中半兵衛 > それから半年後ですね<江良謀殺
井伊直政 > ふむふむ
竹中半兵衛 > ハイエナ戦法か・・・
上杉景勝 > 江良房英は1555年三月で、厳島合戦の七月前ですね。
上杉景勝 > さて、そうなると、吉見氏討伐におもいた安芸国人の領にはほとんど兵がいなく、火事場泥棒の如く安芸を制していきます。
蒲生秀行 > 江良謀殺って厳島の寸前じゃないんですか?<頃合
蒲生秀行 > 社長に伺いを立てるのは当然ですもんね(^^)<平賀氏の対応が筋が通っている
竹中半兵衛 > それと江良謀殺は同じ頃ですか?
竹中半兵衛 > それ
竹中半兵衛 > それ
上杉景勝 > 平賀氏等の対応が筋が通っていましたね。
上杉景勝 > 元就、陶と袂を分かつそれが1554年5月の事でした。
蒲生秀行 > と言う事は、業務提携している別会社の社長が他社の支店長に社長に無断で取引の話持っていってるみたいなもんですよね。そりゃ筋は違ってきますよね<袂を別つ
竹中半兵衛 > うーん
上杉景勝 > まあ、だいぶ前から陶とは決別する決意だったとも言いますが。
上杉景勝 > 三氏の一つ平賀氏に陶が放った使者を平賀氏が捕まえ、元就に送ったために元就は陶と袂を別つ決意をします。
上杉景勝 > 頼りにならんより、毛利の動向が定かでないため、毛利の力の削減でしょうね。
上杉景勝 > 平賀氏は阿曽沼氏は義隆死後・毛利の傘下に入り、天野氏は傘下に入るのはだいぶ早かったと思います/大河は又見たい。
蒲生秀行 > もう毛利は頼りにならんと判断した訳ですな<陶、切り離し画策
竹中半兵衛 > 合戦で負けたときも、(原因はおやかた様が和歌や連歌ばっかりやって遊んでいるから負けたんだ!)とわめいたそうです
上杉景勝 > 陶は毛利参加の平賀氏・阿曽沼・天野氏に直々に催促を計り、毛利との切り離しを画策しました。
竹中半兵衛 > それに隆房は好戦的な性格だったので、義隆や相良武任のやり方は相当気に入らなかったそうです
井伊直政 > よっぽどの愛妻家か恐妻家ですね^^;<聞いてるような戦国武将
蒲生秀行 > 大河だと「手伝い戦はもう御免じゃ」とか言ってた頃ですね<元就
上杉景勝 > 陶は毛利氏に軍勢催促をしていましたが、中々毛利が動かず、重臣を数名人質に送るといい、それでも毛利は動かずついに
蒲生秀行 > まあ、嫁の言う事をなんでも(戦に関して)聞いてるような戦国武将もどうかと思いますが(^^;<聞く耳持たなかった
上杉景勝 > さて、その状況を急変させる出来事が起きました。
上杉景勝 > とりあえず、状況がどう動くか見たかったんだと思いますが、皆さんの御考えは如何です?、元就がね
竹中半兵衛 > そうですね。かなりの独断先行型ですね。
竹中半兵衛 > 妻に大軍を率いて厳島に行くとき、妻に(罠だからやめて!)って言われたそうですが、聞く耳もたなかったそうです
蒲生秀行 > 猛将によくみうけられる独断先行型ですな
上杉景勝 > 陶は自身過剰であると思います。
竹中半兵衛 > 家臣や妻の諫言はまったく聞かなかったそうです<隆房
蒲生秀行 > でも隆元の嫁は一応義隆の養女ですが、実家の内藤家は陶に同調してたはず・・・と言う事は元就の作戦かもしれませんね<評定に時間費やす
上杉景勝 > 吉見氏は3000で陶は20000とどっから調べたか知りませんが、載ってる本が多いです
上杉景勝 > 小説などでは、隆元が(将軍家?朝廷)に陶追討の命を元就に計らずに独断で、進めたそうで
竹中半兵衛 > でも、この話は信用できますよ。かなりの自信過剰男だそうですね<隆房
井伊直政 > 義に厚いですね<隆元
蒲生秀行 > 単純な計算だと吉見氏の方が圧倒的不利な訳ですな<陶×吉見
上杉景勝 > 髢[は情に厚くはあるみたいですよ。
上杉景勝 > 隆元は大内家へ人質に行っていた時があり、良くしてもらったや、謀叛人は必ず滅ぶと陶の呼びかけには応じようとしませんでしたね。
竹中半兵衛 > その後の合戦で隆房は落馬したそうですが、その原因は厚峡の亡霊が突き落としたという伝説があるそうです
上杉景勝 > 立場的には、見方次第ですが、大内氏よりで見れば義隆の姉婿の吉見氏・軍勢を集める力では毛利ですかね?
竹中半兵衛 > 大内義隆に謀反すると決めたとき、同調する武将の中に厚峡弾正っていう義隆の寵臣がいました。しかし、隆房は厚峡を義隆のスパイだと思い込み、火あぶりの刑にしました。それを見て隆房はニタニタ笑っていたそうです<こんな話
蒲生秀行 > 彼なら損得抜きで反対しかねませんね(爆)<隆元が反対
上杉景勝 > 元就の謀略かはわかりませんが、元就が陶の軍勢催促に応じ、隆元は反対となり、毛利評定では半年ほどの月日を費やしました。
井伊直政 > 立場的に吉見と毛利はどっちが上だったんですか?
上杉景勝 > 両方から、催促が来て、毛利氏の意見は二つに分かれました。
蒲生秀行 > ふむ。板挟み状態ですな<両方から催促
竹中半兵衛 > 陶といえば、こんな話をありますね
上杉景勝 > そして、吉見氏からも届いていたといわれますね。
上杉景勝 > 勿論、軍勢催促は毛利氏にも届いてます。
上杉景勝 > 話しを続けると、この軍勢催促に多くの安芸国人が軍勢を連れ吉見氏討伐に従軍します。
上杉景勝 > ええ、九州の方に幾らかいたみたいですね。
上杉景勝 > そうですね、大内氏のためとはいえ、謀叛人で自分の非を余り認めそうではありませんね。
竹中半兵衛 > 吉見家以外でも反陶氏はいたでしょう?
上杉景勝 > さて、この陶の吉見氏攻めでは安芸の国人領主達にも軍勢催促状が届きます。
竹中半兵衛 > 少し様子を見ましょう
蒲生秀行 > 完全に大内家を掌握してはいなかったんですね<陶
竹中半兵衛 > こんばんは
小姓 > 竹中半兵衛殿、ようこそお越し下されました。
上杉景勝 > 以外に、本などでは、吉見氏が急に兵を挙げたみたいに書かれてますね。
上杉景勝 > それまで、吉見氏は益田氏と争っていたと思われます。
上杉景勝 > 大内義隆の姉婿である、陶が吉見氏を討伐しようと、兵を動かします。
上杉景勝 > 時代は1554年に突入すると。
上杉景勝 > この平賀氏が、毛利に陶打倒の決断を迫らせることとなりますが、もう少し後の話しで
上杉景勝 > そして、陶謀叛後に平賀氏の内紛に介入し平賀広資を家督につけました。
井伊直政 > ふむふむ
蒲生秀行 > こんばんは
小姓 > 蒲生秀行殿、ようこそお越し下されました。
上杉景勝 > この時陶家家臣の江良房英を通してでみたいです。
上杉景勝 > 陶が義隆を討ったことから、陶髢[に知行地の目録を出したそうです。
上杉景勝 > まあ、陶の謀反に毛利氏は様子見を伺っていたのですが
井伊直政 > なるほど、縁戚関係ですか
上杉景勝 > 確か縁戚関係があったはずです。(すいません、調べそこないです^^;)
井伊直政 > 何でわざわざ大友家から養子を取ったんでしょうか?
上杉景勝 > 大内家最後の当主:大内義長です。
上杉景勝 > そして時代は進み1552年に大友宗麟の弟、大友晴英を大内家の養嗣子としました。
上杉景勝 > 日本史上稀に見る謀反だったそうです。
上杉景勝 > そうですね、そのような事は書かれてはいませんでしたが、従属していたと思います。
上杉景勝 > 大内義隆が討たれたのが:1551年八月です。
井伊直政 > その時は竜造寺家は大内に従属してたんですか?
上杉景勝 > 後肥前の竜造寺隆信は討たれはしませんでしたが、当主が変えられました
上杉景勝 > 杉興運:杉重矩
上杉景勝 > 陶謀反後に討たれた人物と言うと
上杉景勝 > その中でも、大内義隆の姉婿である、吉見氏が毛利の動向に大きく影響を与えます。
上杉景勝 > ほとんど、攻められてます。
井伊直政 > なるほど
上杉景勝 > ありがちな、文官派と武功派の争いが大内家に当てはまり、武功派の謀反となったとも言えます。
井伊直政 > 謀反を起こした後は義隆支持派の家臣はどうなったんですか?
上杉景勝 > しかし、義隆は何も手を討ちはしませんでした。
上杉景勝 > 家臣団は、離れてるのもいれば、離れていないのもいますが、陶の謀反は確実視されていました。
上杉景勝 > 月山冨田城攻めの敗退以後、義隆が文治に傾いたわけですが…
井伊直政 > その時家臣団の心は義隆から離れてたんですか?
上杉景勝 > 陶は大内家の為、民衆の為に義隆を討ったことになってます。
上杉景勝 > まず、大内義隆ですが、文治に傾き、武家の本文を忘れ、武家方筆頭の陶に討たれます。
井伊直政 > ふむふむ
上杉景勝 > 大内義隆を陶が討ったことから始まり、厳島合戦に行きつきます。
井伊直政 > はい^^
上杉景勝 > さて、始めましょ(^^)
上杉景勝 > 之で良し。
小姓 > 暫し、お待ちを!上杉景勝殿によって現在のお知らせが「歴史会・毛利元就、厳島にて陶晴賢を討つ」に設定されましたぞ。