新門辰五郎 (しんもん・たつごろう)
寛政4年(1792)〜明治8年(1875)
なんで持ってあっちが自分の旦那の話をしなくちゃなんないんだい?バカバカしい。でも、ま・・・・そんな事も言ってられないかもも知れないね。早く仕上げないと、更新が遅れるってもんだ。生年は不詳って事になっているんだけど、あっちの記憶が正しければ、寛政四年(1792)に江戸下谷山崎町ってトコで飾職人の中村金八って人の長男として生まれたんだ。昔っからあの人には、江戸っ子っていう気質があったんだねぇ。 「火事と喧嘩は江戸の華」ってね、大江戸の最後を飾るに相応しい大侠客っていうか、なんていうか一声かければ、瞬時に二、三千人もの子分が一気に集まるんだから、てぇしたもんだよ。町火消浅草十番組の頭取だけじゃなくって、鳶職人の親分で、香具師の元締で、さらに浅草寺の門番もやっちゃうんだからねぇ。そのきっぷのよさと金回りで「新門の頭」って、当時の江戸ではかなりの勢力を持っていたんだ。浅草を地盤としていたんだから、そりゃあんた、浅草奥山の香具師等からのつけ届けの金を投げ入れた床が抜けた事もあったんだよ。あら、嫌ですねぇ。何もあっちの旦那の自慢をしようってぇんじゃないんですよ。そしたら、ちょっと若い頃の話でもしましょうか。 実はね、あの人のおとっつあんの金八って人は、あの人がまだこんなに小さい頃、なんでも留守中に自宅から出火しちゃって、周辺を類燃させちゃったって話だ。何も金八さんが悪い訳じゃないと、あっちは思うんだけどねぇ。「世間様に申し訳が立つかっ」てぇ事で、燃え盛る火の中に身を投じて死んじまうんだ。こういう所が江戸っ子の気質だねぇ・・・。そこからなんだよ、旦那は子供心に「火事が憎い、火事さえなかったら・・・」って、大層口惜しがったそうなんだ。可愛そうにねぇ。それで「火事こそ親の仇」って、事で18歳の頃浅草「を組」の町火消の頭取で、あっちのおとっつあん、町田仁右衛門の元に身を寄せたんだ。 何せ、火事は「親の仇」とばかりに目の色を変えてたからねぇ。半鐘が、そりゃ「ジャンッ」ってぇ、鳴るだけで真っ先に飛び出してどんな火事でも消し口をとって纏を立ててたんだ。 だけど世の中うまくいかないんだねぇ。その時ばかりは、相手が悪かったんだ。弘化2年(1845)1月、いつものように消し口を取った屋根の上に「を組」の芥子に甲羅流しの纏を打ち立てたんだけど、立花将監ってぇ、お侍さんお抱えの火消し、あっちら町火消と区別して、大名火消ってぇんだけど、と喧嘩になっちまうんだ。「どけぃ、どけぃ、ここは立花様の消し口だぃ。てめぇらは、あっちへ行けぃ」って、「を組」の纏を蹴り倒しちゃうから、もう大変。お侍さんだからって、威張り散らしちゃって・・・・ヤダねぇ。だけど、ここからなんだよ。あの人ったら、お侍さんを相手に「何をこの野郎、ケチな真似をしやがるじゃねぇかッ」って、纏でそのお侍さんを殴りつけちゃうんだよ。ざまぁみろってんだ。相手は屋根からもんどり打って転落しちゃってねぇ、打ち所が悪かったのかそのままになっちまうんだ。そしたら、あんた江戸っ子はみんな気が短いからねぇ、立花ってぇ人の火消と「を組」が喧嘩しちゃって、立花側に18人も死者を出しちゃうんだ。一応、その場はあっちのおっとつあんが仲介して、終ったんだけど、それからだよ。「町火消の分際でけしからん。下手人を出せ」 って、立花って人がねじ込んで来たんだ。みんなで止めたんだけどねぇ、「出て来いってぇんなら、逃げも隠れもしないッ。俺が出てやる」って、あの人単身で、立花って人のお屋敷に乗り込んじまうんだ。あっちはもう心配で、心配で・・・・。あとで聞いた話なんだけど、その時あの人は、「さぁ、下手人はこの俺だ。煮るなり焼くなり勝手にしろッ」って、玄関口に座り込んじまったらしいんだ。流石にお侍さん達もこの剣幕には勝てなかったってぇ話だ。それで無傷のまんま帰って来るんだ。 この時あの人は29歳。とにかく、度胸はいいし、火消仲間からの評判もよかった。めきめきとその男ぶりをあげるあの人をおっとつあんは、すっかり気に入ってしまってね、恥ずかしいケド、あっちと結婚って事になるんだ。そこで養子縁組ってぇ事であの人が、跡目を譲られるんだ。 殺気だった火事場では、そりゃあんた消し口の取り合いから、喧嘩が絶えなかったんだ。その後も「ろ組」と「と組」の喧嘩を鮮やかに解決しちゃったり、「を組の辰五郎」って言えば、知らないものはいないくらいくらいになるんだ。だけど、久留米藩の有馬家お抱えの火消しとの喧嘩では、双方に数多くの死者が出ちまうんだ。あの人ったら、止めとけばいいのに「子分の不始末は、頭の不始末」って直訴するんだ。厳重な取調べの結果、喧嘩の原因が相手側にあったって分かるんだけど、あの人は江戸追放ってことになっちまうんだ。もっともそのままじゃ終らないのが、あの人のいい所ってゆうか、なんというか、密かに家に戻って来ちまうんだケド・・・・・これが発覚しちゃったんだから、てぇへんだよ。今度は佃島の牢に入れられちまうんだ。不運は重なるものだねぇ、翌三月には、佃島で火災が起こって、牢までせまって来たって話だ。そこで囚人は解放しで一時解釈ってぇ事になるんだけど、そこであの人は油倉庫の類焼を防ぐってぇ事で消火活動に活躍するんだ。もう根っから、火事が嫌いなんだねぇ・・・。でも、その功によって翌日には解放されて、より名前を挙げたってぇんだ。転 んでもただでは、起きないとは正にこの事だねぇ。 慶喜さんとあの人を結びつけたのは、上野大慈院の別当覚王院義観ってぇ人だ。この義観って人、筋金入りの佐幕派で、後に慶喜さんの助命の働いて、上野戦争では彰義隊に味方して官軍相手に抵抗した豪僧ってぇんだから、そりゃもうすごいのなんのって。そこでその義観って人は、浅草一帯に顔の利くあの人に、東叡寺の管轄下にある浅草寺境内の掃除方とかなんとかって、いうお役目を依頼して来るんだ。掃除方って言ったら、一言で言えば風紀衛星の取締りってトコかな。浅草寺境内の大道商人や香具師達はもうあの人に睨まれたら商売が出来なくなっちまうもんだから、毎日の売上のいくらかを付け届けして来たんだ。個々にはたぇした事はなくっても、あんた纏まれば大変な収入が転がり込んで来たってわけだ。もっとも、あの人が睨みを利かせているから、境内に巣食っていたならず者もすっかり影を潜めて、安心して商売が出来るようになったってぇんだ。あっちは、よくは知らないんだけど、噂に寄ればヤクザやスリからも「目こぼし料」ってもんを取っていたてぇ話だ。あの人が通称「新門辰五郎」って、呼ばれてるのは、輪王寺の舜仁准后とかって人が浅草寺に隠居して新門を作った時 、あっちのおとっつあん、あの人の義父になるわけだけどの仁右衛門がその守衛を命ぜられた事から称されるんだ。 元治元年(1864)三月慶喜さんが禁裏守衛総督とか、なんとかっていう偉いお役目に就かれた時、慶喜さんったら、何を考えてか「身辺警護の役を申し渡す」って事になるんだ。もうあの人の感激、張りきりようったらなかったよ。「俺が慶喜さんを守るんだ」ってね、ガラにもない事言っちまってさ。そこで、9月には250人程の子分を連れて上京し、御所や二条城の防火等の任務などにあたる事になるんだ。しかもその時、娘のお芳までが、慶喜さんの奥女中になって、上洛について行っちまうんだ。今思えば、あの人も芳も慶喜さんからもの凄い寵愛を受けていたんだねぇ。慶喜さんが将軍様になってからも、あの人は半纏姿のままでお目通りが出来たってぇんだから、これはちょっと異常かも知れないね。 慶応4年(1868)、鳥羽・伏見の戦いっていう幕末の関ヶ原とも言える戦いがあったんだけど、当時異国の者が日本の分裂を心待ちにしてあわよくばこれを占領せしめんって、待っていたんだ。そこで慶喜さんは日本を焦土と化すのを避け、異国から守ろうって事で、大阪城から江戸に帰って来ちまうんだ。口の悪いヤツなんか、慶喜さんは敵前逃亡した卑怯者って罵っているようだけど、あっちには慶喜さんの気持ちがよく分かるね。だけど、この時慶喜さんの一行は大金扇の馬印を大阪城内に置いてきちまうんだ。そこで、あの人は混乱する城内に戻って、慶喜さん達が無事に出航したのを確かめると、この馬印を押し立てて子分20人ばかりと陸路東海道を下ってくるんだ。「新門辰五郎の美談」として、後世まで講談等で有名になるって事だから、てぇしたもんだねぇ・・・。 江戸開城の際には、勝海舟ってぇ人から江戸中に火をつける焦土作戦も命じられたりしたんだけど、結局は無血開城って事で実施されなかったんだけどね。この勝って人は「氷川清話」で、「新門の辰などは随分物の分かった男で、金や威光にはびくともせず、ただ意気ずくで交際する」ってぇ、かなり評していたって話だ。上野戦争では彰義隊に協力して、子分達が弾除けの為の米俵を運んだり、「を組」二百数十人と駆け付け、山内の大伽藍を戦火から守って、官軍を相手に勇敢に戦ったそうだよ。滅び行く徳川家に最後まで忠節を尽くすんだ。江戸っ子の名に恥じない見事な行きざまだねぇ。あっちが言うと、なんだか旦那びいきって思われちまうかも知れないケド、これぞ男の中の男だとあっちは思うね。 その後も上野寛永寺、水戸、静岡って慶喜さんの身辺に付き従う事になるんだ。水戸へは勘定方とかってもんに命ぜられて御用金二万両を運んだそうだ。そして、静岡ではあの清水の次郎長さんって人と肝胆相照らし、兄弟の杯を酌み交わす事になるんだ。二人で協力して、明治2年(1869)には玉川座っていう芝居小屋を設ける事になるんだ。その後、あの人が再び江戸に戻ってくるのは明治4年になるんだ。その時、もう江戸はなくなっちまって、東の京とかって事で東京って呼ばれることになっちまうんだ。江戸がなくなっちまうってのは、寂しいねぇ。あっちら江戸っ子はどうなっちまうんだい、一体!?って、大層騒いだもんだよ。明治に入ってからでも、祭礼の灯篭に日の丸、その下に葵紋が描いてあるのを見ると否や、歳も考えずに怒って破り捨てちまったりしたもんだよ。それからは、あの人もようやく静かに余生を送り、明治8年(1875)9月19日、浅草馬道で、83歳の人生を閉じちまうんだ。 ってな、訳で簡単だったけど、あっちの旦那の事が少しは分かって貰えたんじゃないかって思う。なかなかの男前でござんしょ?最後に、あの人の辞世の歌。 思ひおくまぐろの刺身 ふぐと汁 ふっくりぼぼに どぶろくの味 いかにも無頼の人生を送ったあの人らしい句だねぇ・・・。 |